唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (14) 種子について

2015-01-25 14:37:05 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 諸の種子とは、つまり」異熟識が持する所の一切の有漏法の種子である。異熟因・異熟果という、時を異にして生じた果を異熟、因が熟したという果ですね。この人間界に生れたのは、人間界に生れようとした因が生れたという果を引き起こしてきたのです。自らの因が自らの果を生み出した。自分が生れようとした意思が、この世界を選んだというわけです。分別をしていますから無漏法というわけにはいきません。有漏法の種子が開花した。その場所が人間界を選んだということになります。異熟識が変為した所の種子、第八識中にあるところの諸法生起の功能であって、これは因縁の力によって第八識自体分に摂められる功能ですね。第八識の中に自らの因によって自らの果を引き出すパワーを種子とよんでいるわけです。自体分が転じた所の所縁になります。
 しかし、人間に生れるには人間に生れる善業が不可欠になりますが、私たちは三悪道を離れて人間として生を受けたという事実があります。異熟因は善か悪(不善)なのですが、人間に生れたのは、人間として生まれようとした意思決定が過去世に善業を積んできたということですね。善・悪の業果が異熟果であり、果は無記性である。悪業の果としては三悪道ですね。地獄・餓鬼・畜生という境涯です。境涯ですから、たとえ人間として生を受けたとしても、三悪道に転落する可能性は大いに有ります。悪道の因の最たるものは謗法です。それと五逆です。これに由って人間性を喪失していきます。
 ここには大きな問題が孕んでいると思います。因から果へは、願うという意思が働いています。願って生まれた。願生です。願生が因となって生を得たということですね。果が因となりますから、因は願生です。「普共諸衆生 往生安楽国」という願に生きる者とならんという願に生きるのが、人間として生をうけた者の勤めであるということになると思います。ここをはっきりしないと生きることがぼやけてきます。有漏から無漏へ、
 異熟識は有漏法であるということですが、異熟識が変現する所の種子も有漏、有漏法の種子、だから所縁とすることが出来る、第八識の所縁となり得るわけですね。つまり、第八識見分の所縁となりますから、また第八識の相分中に摂することになります。
 次科段は、では無漏法の種子は如何なるものなのかという問いに答えています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿