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「是に由って設ひ他方の自地に生ずれども、彼の識いい亦此の土を変為することを得。」(『論』第二・三十左)
これに由って正義を述べるならば、設え他方世界という、三千大千世界の外の世界という途方もなく遠いところの自地であっても、もしそこに生ずると云うことがあるならば、彼の異熟識は他方世界を変為するのである。何故ならば、その地で色身を依持し、身を受用するわけですから、その地を変為することが出来るのである、と。
自地とは、同じ欲界であれば。彼の異熟識は他方世界の欲界の器界をも変為するのであるということです。
『述記』には、「現に居せる身に同なる他の三千界所依の処を説いて當地と名づく。彼の當地の一切の有情皆能く之(欲界)を変ず。唯是の一千界のみ変ずるに非ず。亦異地(上地)にして當に(下界に)生ずる者も(欲界を)変ずるにも非ず。(此の方の)欲界と(彼の方の)欲界と同なり。乃至上も亦爾なり。」(『述記』第三本・六十五右)
仏教の世界観と云うのはすごいですね。私たちの住んでいる処は欲界なんですね。生まれた処は欲界という欲望が渦巻いている世界であった。そこにに身を置いたわけです。しかしまだ見ぬ世界であっても、他方世界の欲界を変為することが出来るといっているんです。これは外界の世界があって変為するのではない、異熟識が変為するんだということなんです。いつの日かですね。、私たち人類は宇宙の彼方で暮らすことが有るかもしれませんが、宇宙の彼方が有るわけではないんです。そこを処とする場合には色身を依持し受用することがあって土が変為する。同時なんです。同時に生れるということなんです。異熟識に離れて器界が存在するのではないのですね。
これは、阿頼耶識は三千大千世界も虚空も包んでいる、差別をしていない。「広大にして辺際なし」なんですね。すべての世界を阿頼耶識は変為しているんです。私たちは、本来広大無辺際の世界を生きているんですよ。仏法に触れてですね、広大無辺際の世界を知る、分からなくっていいんです。私の命そのものが、広い世界を生き切っているんですね。そこが一期一会なんでしょう。一瞬一瞬完結しているんですね。一刹那といいますが、そうしますと、私たちは如何に狭い世界を作って、窮屈に生きているかが教えられます。何がそうさせるのかです。深い闇が覆っているんですね。私が私を覆っている、覆っている正体が私であった、ということなんですね。そんな私を問い、聞いていく歩みが聞法なんですね。生まれたと同時に宿題を背負っているんです。生涯かけて解き明かさなければならない宿題です。そこには世間の価値観は間にあいません。逆に世間の価値観は必要ではなくなるんでしょう。
このこと一つを尋ねるために命をつなぎ、このこと一つに頷きを得よ、と。
「時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、自ら瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投ぐ。号泣して仏に向いて白して言さく、「世尊、我、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる」(『観経』真聖p92)
僕は思うんです。本当に聞きたいこと。出会いたいことは自分なんだと。今にして思えるわけですが、「自ら瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投ぐ。号泣して仏に向いて」が出来んかったですね。頭を挙げていたいばかりに逃げまくっていました。着飾っていますと本当の問いが見つからんのですね。そして本当の愚痴も出て来ないんです。愚痴は正法を聞く扉なんですね。愚痴と聞きますと、無明だと。煩悩が起ってくる基点になるようなもので悪であると思われるんですが、愚痴は仏法を聞いてきた証しでもあるんです。なにも間に合わん、世間の価値も、学歴も、職歴も、地位や財産も間に合わん、すべてが崩れ出し、自我崩壊の音が聞こえてきた時に、愚痴が輝くんです。南無阿弥陀仏と。
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