唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門  所縁について(3) 処(3)

2015-01-05 21:18:22 | 初能変 第二 所縁行相門
 友人とのやり取りの中で、少し時間をおいている所が有ります。それは僕の勝手なんです。僕に答えるだけの余裕がなかったんですが、本当に答えることができるのかと疑問に感じていました。彼は非常に苦しんでいるのです。でもそれは彼の苦しみであるけれども、僕は、彼の苦しみを傍観しているだけではないのか。僕の立ち位置はどこにあるのか。僕は、僕の経験上から答えようとしているんですね。これは僕の経験であって、彼の経験ではないのですね、そこに気づかされた時、答える術を失いました。彼の苦しみを我が苦しみと出来るのかです。このような問題に、宗門の大先輩である仲野良俊師は次のように教えて下さっています。
 
「さて入出二門偈の曇鸞大師のところに入りますが、最初に大切なのは他利と利他の区別をつけられたことが出ています。これを親鸞聖人は大切にされて、教行信証では他利利他の深義、意味深い道理として示していられます。
こういう問題は何処から出て来るかと申しますと、先ず天親菩薩の五念門で、前の四つは自利、あとの一つは利他ということになっていました。これは大乗仏教で仏になるには、菩薩の修行をしなければならぬと教えられていますが、その菩薩の修行の内容が、自利に関する(自らが真理を明らかにすること、自分が助かること)と利他の面(その真理を迷った人々に与えること、他を助けること)に分かれていて、それを天親菩薩は五念門として示されたのであります。
 ところがそれを受けられた曇鸞大師は、自利は人間に成り立つだろうけれども、利他は人間には成り立たぬといわれるのであります。たしかに利他の大事なことは分かります。自分さえ助かればよいというのは、本当に助かったことにはなっていないので、私たちは私たちの周囲に助からぬ人があったら、こちらが助かりません。こういうことは、話としては肯けるでしょう。しかしさて実際やろうとすると、とたんに矛盾して来ます。相手立てればこちらが立たず、こちら立てれば向こうが立たぬ、これが悲しいことですが人間の現実ではないでしょうか。
 他利というのは他が利せられるということで、自分が得をすることによって他が得をすることは、時にはありましょう。しかし利他は他を利するということで、この場合は自分を投げ出さねばなりません。これは人間には出来ないこと、話としてはきれいなことですが、さて実行ということになると一歩も出られません。それで曇鸞大師は他利はあるが利他は無いといわれたのであります。こういうことは徹底的に凡夫としての自分を知られたことから出て来たに違いありません。
 結局、利他は人間には無い、仏さまだけにあることだといわれるのであります。しかしこのことは、、私たちに利他は無くてもよいということではありません。本当は助かるということは、やはり利他の心を持つことでしょう。そうでないとエゴイズム、利他主義から逃げられません。菩薩のよろこびをあらわした言葉に、自愛を減らし他愛を生ずるが故に菩薩大いに歓喜するということがあります。これは利己主義から解放されたこと、他を愛するような広い心をもつことによって広い世界に出ることが出来たこと、それが大きな喜びであるといわれるのであります。
 しかし私たちには残念ながらその力はありません。ここに曇鸞大師は如来の利他の心、それを頂くより他に道はないということ、利他は他力、言いかえれば如来の利他の心、これによって始めて成就するのであると教えられたのであります。利他は人間にはないということ、これを深義と親鸞聖人がいわれたのは人間を深く知られたということでありましょう。」 (名古屋別院、お東ネットより)

 僕は彼を縁として、僕が僕自身に出遇う道を開いていただいていると気づかされることです。僕は、仏法を聞いていても、仏法を頼りとして依存するか、或は仏法を剣にして他を裁く道具にしてしまうのか、自分を立てれば、そのいずれかの選択肢を選ぶのではないでしょうか。自分を立てる、此処には深い自己存在の闇が潜んでいるように思います。どうしても自分を立ててしまう。家族関係の中で、なかなかつながりが保てない、いわばバラバラである、親子関係もままならない。親子であるが故に対立してしまう。何故なんでしょう。僕たちは苦しむために生れてきたのではないでしょう。空しく過ぎることのない人生を望んいるのではないですか。ここは難しいところです。僕は、自分の人生はバラ色であるようにレールを敷いてきたつもりなんです。「つもり」です。つもりはね、道を外れていても気付かないのですね。刹那主義といいますか。虚無的でしたね。明日は明日の風が吹くケセラセラで、そこに何の疑問も感じませんでした。家族を道ずれにしていてもです。傲慢でした。傲慢さは今も何等変わりませんが、天狗になっているな、傲慢さが頭をもたげているな、と気づかされる真宗に出遇えたことが大きな違いでしょうか。そのように思えてなりません。そうしますと、僕たちはいつでも人を傷つけ、他に迷惑をかけ、身近なところでは、家族を足場にして自分という存在を強調させている。本当は強調させていただいているのではないでしょうか。もっというなら、奥さん、おじいさん、おばあさん、子供も、私の為に働いていてくれる存在なのではないでしょうかね。頭でっかちになるなよ、と。すべては私が作りだした世界なんだと。私の中の妻であり、子供であり、おじいさんであり、おばあさんであるわけですね。すべては私一人を育てる働きであったと気づかされる時、「地獄一定すみかぞかし」と頭が下がるのではないでしょうか。