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第二の説
「是の故に現に居せるひとと、及び當に生ずべき者との、彼の異熟識いい此の界を変為す。」(『論』第二・三十右)
このように、現に此界に居る人と、及びまさに生ずべき人との異熟識は此界と及び當性の界とを変為するのである。この文章を読ませていただいた時に、
「若し母無くんば、所生の縁即ち乖きなん。若し二人倶に無んば、即ち託生の地を失はん。要ず須く父母の縁具して方に受身の處有るべし。既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。斯の義を以ての故に、父母の恩重し。」(『観経疏』真全Ⅰp490)という善導大師の言葉が響いてきました。
私がこの世に生を受けたのは、父母の縁を待ってですね。自らの異熟識が変為し、因縁和合して命を授かっているということなんですね。人は何故この世に生を受けたのかがはっきりしませんと「父母の恩重し」という教えに頷くことができません。迷いの境界に生を受けたのは、迷いの境界を翻すことを業とすること以外にないわけです。私たちは知らず知らず煩悩に翻弄され、本来性を喪失して、名聞・利養・勝他という刃で現世を謳歌しようとしています。その根元が我執ですね。でもね、我執が悪というわけにはいかなんです。生涯を貫いて「有」るのは我執ですから。我執を御縁として開かれてくる世界に目覚めていく。その世界は我執を通してしかわからないんでしょうね。我執には我執それ自身が我執を知らしめてくる働きをもっているのではないのかと思います。その働きを聞く。それが人生の根幹になければならないと思っています。
「経には少分に依って一切の言を説けり。諸の業同なる者は皆な共に変ずるが故位と云う。」(『論』第二・三十右)
経に「経には少分に依って一切の言を説けり」とは、少分の一切という意味であって、全分の一切をいうのではない。業不同のものは変じないからであると釈しておられます。経に「一切」と説かれているが、その一切はすべてをさすのではなく、少分をもって一切と説かれているのである、と。その意味するところは、業が共通している者は、共通している者同士、同じように変ずることができる。それを一切と表現しているのであって、業不同の者を含めて一切と云っているのではないと説いています。これが第二説になります。ここも意味するところ深いですね。一つのセクトがですね。すべてを包むと云っているんですが、間違いを起こします。宗派我といわれるものでしょう。法執ですね、これを超えるところに「一切」の働きが有るのでしょう。
本科段は前文と経との会通です。
「一切の人は共に此の物を見ると言うが如き、他方界の亦能く之を見るものには非ず。小分に約する故に業不同なる者のは即ち変ぜざるが故に。」(『述記』第三本・六十三左)