唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (13) 有根身 (1)

2015-01-29 21:42:34 | 初能変 第二 所縁行相門
 本科段は「有根身を解す」一段になります。略解において「有根身とは謂く諸の色根と及び根依処とぞ」を明らかにした上で、「執受と及び処とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は因と縁との力の故に自体の生ずる時に、内には種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」と釈されていました。
 第八識が変為したものの所縁は種子と有根身とである。種子と有根身は自らのものですから執着があるわけです。身と離れないものですから執受と云っています。もう一つの所縁は器です。器世間を変為している。外界です。外界も第八識が変為したものですが、器には執受はありません。器は共通したもの、共中の共になります。
 所縁は、第八識が変為したもの、「識体転じて二分に似る」、所縁は認識対象で相分。認識するものは見分、認識対象があるのは認識するものがあるということになりますね。それが種・根・器であるのです。第八識の具体相は主・客の関係で働いている。相分・見分の形で起っているのですね。見分は行相である。行相とは了別することであると釈されていました。行相と所縁の中の処と種子については昨日までに述べてきましたが、今日は有根身について考察することになります。
 有根身とは、「根を有する身」ということですが、五根より成る肉体は五根の集合体として第八識が変現したもの、自らの肉体は自らの因縁変によって変現せられたものということになります。種子生現行、人間としての果報が因であるところの善・不善の業によって人として現行している。自らの業の結果としての五根と五根を支えているり依り所の集合体である。例えば眼根が生ずる依り所となる根で、所依の根と云われています。色根そのものは不共中の不共、所依の根(根依処)は不共の共である、と。
             不共中不共 - 眼根等の如し。(色根・五根を勝義根と云う。)
     不共種相 〈
             不共中の共 - 自の扶根塵の如し。(五根の所依処で根依処と云う。)
 「身とは総名なり。身の中に根有るを以て有根身と名く。此の中に言う所の不共相の種とは、若し前説の如くならば、不共中の不共なり。自に即する根の如くなり。不共中の共とは身に在る色等の如し。」(『述記』第三本・七十一右)
 有情の身体は第八識の因縁力によって変為するところである。再論しますが、即ち過去の善・不善の業の因縁力に随って、五趣の在り方が決定されてくるわけです。また同一の趣であってもそれぞれに区別がありますのも過去の因縁の勢力に従って趣を異にすることになるのであると言っています。
 本文に入る前に概略を示しておきます。表面的にはこのように述べていますが、何故このような説き方になるのか考えて見る必要がありそうです。生現行は無覆無記であるということがヒントになるように思えてなりません。私は私の身において、私の境遇を引き受けていくことが出来るのであることを教えているようです。善導大師が「信心の業識」とはっきりさせられましたことも頷けることが出来るようです。自らは自らの業を引き受けて現世に生を得たことの信知が真実信と云われているのでしょう。
 「良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。」(『行巻』真聖p190)と。

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