唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (15) 無漏種子について (1)

2015-01-25 23:19:54 | 初能変 第二 所縁行相門
 それでは無漏法の種子は所縁となり得るのか、なり得ないのか?(有漏れ法の種器は所縁となり得るということを受けまして、無漏法の種器にちて問いを出しています。)
 「無漏法の種は、此の識に依附(エブ)せりと雖も而も此の性に摂めらるるに非ず。故に所縁に非ず。」(『論』第二・三十一右)
 無漏法の種子は、第八識に依附しているといいます。種子が所依とするところ、即ち阿頼耶識に存在していると説明しています。有漏・無漏を問わず、阿頼耶識の中に依附している、無始以来ですね。凡夫・菩薩を問わずです。第八識に依附しているわけですから、第八識が変現したのでもなく、所縁となるものではない。
 無漏法は能対治法である。有漏法は所対治法であるということなのですが、所対治は対治されるもの、有漏は断じられるものであって、断じるのは能対治法である無漏法ということになります。即ち無漏法に触れて初めて有漏が自覚され、無漏法に導かれて有漏が対治されるということなのですね。私が私の意志で有漏で有る所の煩悩を断ずるというのではないのです。私の意志で煩悩を断ずることは不可能だと教えているんです。対治するものでありますから能であって所ではないのです。従って『述記』には「識を対治するが故に、体性異なるが故に、相順せざるが故に、故に所縁に非ず。」(『述記』第三本・六十七左)と釈しています。有漏の第八識は有覆無記性であって、無漏は唯善性(無覆無記)でありますから相順しない。これは無漏種子は有漏第八識の性に摂められるものではない、従って有漏第八識の所縁ではないといいます。
 諸の種子とは、有漏第八識の所変であり、そして所縁であるすべての有漏の善悪等の諸法の種子をいうのであると結論ずづけています。
 ここで一つ問題が提起されます。
 唯識の定義は、一切不離識とか万法唯識といわれています。すべては心を離れては存在しない、ということなのですが、「心に離れない」と聞きますと、心は有ると捉えます。よく言われることですが、心のもちようだと。唯識はそうはいいません。心が有ると考えてもいけない。有とは実体化ですね。実体化の否定が唯識の性であるわけです。刹那滅という表現は心の有り様を的確に言い当てているようです。
 『法相二巻鈔』には、「心ヲ執シテ実ト思モ又迷乱ナリ、心ヲ執シテ心ノ外ニ置ク故ニ。空ヲ執シテ実ト思モ又迷乱ナリ、心外ニ空ノ相ヲ見ルガ故ナリ。此故ニ心ノ外ニ有リトヲボユル相ハ、色モ心モ有モ無モ皆悉ク実ノ法ニ
非ズ。
」「実にあるもの」ではなく、有るのは有・無という言語化された概念だけにすぎないと唯識は説きます。
 問題は、執する心なんです。執する心は迷乱であるということですね。「すべては心を離れては存在しない」と聞きますと、離れない心が有るんだと聞いてしまうのですね。良遍は「(なぜ迷乱かというと)心に執着して心を心の外に投げ出して心は存在する、或は事物は存在すると考えるのは迷乱である。」と云っているのですね。実に体あるものではない、ということです。しかし、この迷乱が大事なキーワードなんです。
 本頌の第二十五頌を見ていただければいいと思いますが、そこには唯識性が語られています。第二十頌・第二十一頌・第二十二頌で三性説が説かれます。それを受けて(若し三性有りと云わば、如何そ世尊一切法は皆自性無しと説き玉えるや。頌に曰く)第二十三頌・第二十四頌で三無性が明らかにされるわけです。「この性は即ち是れ諸法の勝義なり。是れ一切法の勝義諦なるが故に。」この性とは、円成実の勝義無性である、と。この勝義無性を釈して、第二十五頌ですね。「此れは諸法の勝義なり。亦は即ち是れ真如なり。常如にして其の性なるが故に。即ち唯識実性なり」
 「此の性は即ち是れ唯識の実性なり。謂く唯識の性に略して二種有り。一には虚妄。謂く遍計所執。二には真実。謂く円成実性なり。虚妄を簡ばんが為に実性と云う言を説けり。」(巻第九p3)
      虚妄 - 遍計所執性
      真実 - 円成実性
 復た二性有り。一には世俗。謂く依他起。二には勝義。謂く円成実なり。世俗を簡ばんが為の故に実性と説けり。」
      世俗 - 依他起性
      勝義 - 円成実性
 本科段はもう少し詰めて考えなければならないと思います。 (つづく)

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