唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 所縁について(1) 処

2015-01-03 14:32:09 | 初能変 第二 所縁行相門

  識の行相は即ち了別である。了別とは即ち識の見分であり、その体は第八識の見分であると結論され、『成唯識論』に「了とは謂く了別なり。即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に」に応えています。
 次に所縁が説かれてきます。所縁は処と執受になります。今回は処について説かれます。これも『論』に「処は謂く処所なり。即ち器世間なり。是れ諸の有情の所依処なるが故に」をうけてのことになります。所縁は境のことですが、所縁を内外に分けて、処は外境・執受は内境だと。識の対象を大きく分けて外境と内境という、と。この分け方は世間に順じて言っているわけで、厳密には仮に外境といい、仮に内境ということですね。本科段は外境とは何かということが考究されているところになります。
 「言う所の処とは、謂く異熟識(イジュクシキ)の共相(グウソウ)の種(シュウ)を成熟(ジョウジュク)せる力に由るが故に。変じて色等(シキトウ)の器世間の相に似(ノ)る。即ち外に大種(ダイシュ)と及び所造(ショゾウ)の色(シキ)となり。」(『論』第二・二十九左)
 処というのは、自らの種子を因縁として、阿頼耶識が器世間を変為(ヘンイ)したものである。つまり、阿頼耶識が変化して内に種子と有根身とを、外に器世間を作りだす働きを変為といっているわけで、「阿頼耶識は因縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為し、即ち所変と以て自の所縁と為す」と説かれている。
 阿頼耶識の対象として外に器世間を変為している、ここですね、非常に難解です。外に対象としての世間はあるではないか。世間が在って私が存在している、こう考えていますが、仏教はそうではないと否定します。すべての存在しているものは心を離れては存在しない、心が変化したものであると。一切不離識と云われる所以です。
 
              種子 - あらゆる存在を生ずる種子
         内境〈 五根 - 十一種の色法の中の五感覚器官
 阿頼耶識 〈
         外境  器界 - 山河・大地等の自然界

 器世間は有情の所依処といわれています。私たちは器を所依処として存在している。その所依処は阿頼耶識が作りだしたもの、阿頼耶識が作りだしたものを所変として自らの所縁としているというわけです。その体は色・声・香・味・触の五塵である。ここを詳細しますと、第八異熟識は自体生ずる時、親因縁と及び業種子との力との力に依って、内に種子と有根身を、外に器世間を変為し、それらを自の所縁とするということになります。器世間が無いというわけではないのですね。ここがややこしいところで、器世間を縁として自らの中に器世間を写し出し、映し出されたものを見ているということなのです。自分が描いたように器世間が在るわけではないということです。年が明け、御本山の周辺は大雪ですが、大雪を縁として私の中で大きく心が変化します。自然はあるがままです。あるがままを受け入れられない心が、心の中に器世間を作りだしているのですね。心の中の御本山を見ているのです。それが、「異熟識の共相の種を成熟せる力に由るが故に。変じて色等の器世間の相に似る。」と説かれているわけです。
                                           共 ― 山河・大地
              共相の種子  ―――  器世間 ――― 〈 
                                           不共 ― 田畑・家
  親因縁の種子 〈
              不共相の種子 ――― 有根身 ――― 人人了別
 
 種子生現行の因の種子は、異熟識の中に蓄えられた種子ですが、その種子の中に共相の種子というのがる。共相の種子が成熟(まさに現行するまでになった状態)する力に由って器世間の相に似て現れたのである。これを外境という。
 種子に二つある。一つは共相の種子である。二つには不共相の種子である。共相とは、共通すること。ある事象すべてに共通する相です。不共相とは、共通することのない種子或は性質ということになります。人人唯識ですね。独り一人の世界をもっている。つまりですね、人は一人一人別々の世界を見ているということなのです。講義もですね、話を聞くということは共通していることですが、どのように聞いているかは共通しているわけではありません。お一人お一人の責任で聞いておられるわけです。それが業種子となるわけです。共業・不共業です。本願力廻向は共業ですが、聞法は不共業ということになりますね。「摂取の心光、恒に照護したまう」が共業、「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり」の「覆」は不共業で分限が違うわけでしょう。ここの問題はまた後ほど見たいと思います。
 「外の大種」等は四大種所造色(シダイシュショゾウシキ)と云われます。地・水・火・風の四大種(四つの元素)と、この四つの元素から造られた十の色処(眼・耳・鼻・舌・身と色・声・香・味・触)と法処所摂色であると教えられています。(『瑜伽論』巻第九。大正30・323a)
 四大種については『倶舎論』に記述がされていますので、そこから少し伺ってみたいと思います。
 
 「分別界品第一・第十二頌」にですね、

 「大種謂四界 即地水火風 能成持等業 堅濕煖動性」という記述が有ります。

 (大種は謂く四界なり、即ち地水火風なり、能く持等の業を成ず、堅濕煖動(けんしつなんどう)の性なり。)
•大種 - 四大種。地水火風の四元素
•持等の業 - 保持・包摂・熟成・増長の作用。
•堅濕煖動 - ①地は堅の性で、物を持つ作用がある。②水は濕の性で、物を摂める作用がある。③火は煖の性で、物を熱する作用がある。④風は動の性で、物の長くのびる作用がある。

 触境の中の四大種の説明です。四大種は能造であり、その他の色法はすべて所造(四大種所造色)という。世親は「造は是れ因の義、種は所依の義」と説明しています。因であり種である、と。四大を因として果(未来)にある所造が現在に顕れたというのです。すべの色法は能造の四大と所造の色・香・味・触の八種が集合して出来上がったものであると説明します。

 又、四大種を実の四大種と仮の四大種とに分けて説明しています。
•実の四大種 - 堅・濕・煖・動という触覚的なもの。
•仮の四大種 - 眼などの感覚でとらえられた地・水・火・風の四つは、実の四大種から造られた仮の四大種であると考えられました。

 『倶舎論』には「地界能持。水界能攝。火界能熟。風界能長。長謂増盛。或復流引。業用既爾。自性云何。如其次第即用堅濕煖動爲性。地界堅性。水界濕性。火界煖性。風界動性。由此能引大種造色。令其相續生至餘方。如吹燈光。故名爲動。品類足論及契經言。云何名風界。謂輕等動性。復説輕性爲所造色。故應風界動爲自性。擧業顯體故亦言輕。云何地等地等界別。」(大正29・3b)

 仮の四大種を説明する ・ 第十三頌

 「地謂顕形色 随世想立名 水火亦復然 風即界亦爾」

 (地は謂く顕形(けんぎょう)の色なり、世想に随って名を立つ。水も火も亦復然り。風は即ち界と、亦爾りとなり。)

 世間の呼び名に随って、顕色及び形色をもったものを地と名づける。水・火・風も同様である。その体は顕形色である。

 「色」とは「いろ」という意味ではなく、色蘊の色で、物質的なるものという意味です。原語は、ルーパで二つの性質をもつ「もの」として定義される。

 ① 「変壊」(へんね) - 変化し壊れてゆくもの。肉体は生まれた瞬間から死に至るまで変化しつづけ、衰えていくという、無常を言い表しています。
 ② 「質礙」(ぜつげ) - 同一空間に二者が共存できないもので、互に礙えること。二者が同時に同処を占有することはできないという定則です。

 「地謂顯形。色處爲體隨世間想假立此名。由諸世間相示地者。以顯形色而相示故水火亦然。風即風界。世間於動立風名故或如地等隨世想名。風亦顯形。故言亦爾。・・・・・・色復云何欲所惱壞。欲所擾惱變壞生故。有説。變礙故名爲色。」(大正29・3b~c)

 極微についても論究されています。極微は色法と名づけることはできないのではないか、と。理由は質礙の意味を持っていないからである。この問いに答えて、一つの極微が単独で存在するということはなく、必ず衆徴集まって諸法を成り立たせているので、そこには質礙は成立しており、何等問題はないという。又過去未来の色は色法と名づけることはできないという問いに対して、過去の色は曾って変礙したもの、未来の色はまさに変礙すべきものであるから、色法と名づけて差し支えないと答えています。変壊と質礙とをまとめて「変礙」といっています。もう一つ、無表色の問題があります。無表色は色法とはいえないのではないかという問いです。これに三説答えられています。①表色に質礙の意味があるから、無表にも色の名を与えたのである。この説には無理がある。喩が出されているのですが、「樹が動くと影も動くようなものだ」と。しかし樹がなくなると影もなくなってしまうではないか。もともと無表には質礙の意味はないから、これを色とするのは無理である、と。②有部の説になりますが、所依の大種に質礙の意味があるから、それによって無表色も色と名づけられるのである、というのですね。ここで又問いが出されます。所依の根に質礙があるというのであれば、能依の識を色と名づけても差し支えないのではないと。有部の反論は、無表が大種に依って起こるのは、丁度影が親しく樹に依り、光が親しく珠宝に依る様なものであるけれども、眼識等が眼根に依るのは、この喩のような意味とは異なって、唯だ助縁となるだけのことである。しかしこの主張が有部の教説とは異なっていると批判されるのです。③は、世親の救釈です。眼識等の五は所依が定まっていない、五根のような質礙のあるものを所依とし、或は、意根のような質礙のないものを所依とする。しかし無表の所依はそうではなく、必ず四大種と定まっている。①と②の説は的を得ていない、変礙もまた色と名づけて差し支えないのだ、と。五根→五境→無表色→変礙
           (つづく)