唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(31)

2015-01-01 02:43:12 | 初能変 第二 所縁行相門

            
 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
 唯識と云う名で皆様方をたぶらかして過ごしました一年でありました。申し訳ございません。このように投稿していることが妄想なんですね。妄想とわかって妄想を重ねている愚かさを痛感する次第です。でも妄想の中から多くの学びを得たことも確かであります。本年度も妄想を重ねながら皆様方に聞いていただき、お叱りを受けたいと思います。どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

 「入楞伽の伽他の中に説くが如し。
   自心の執着するに由って 心いい外境に似て転ず 彼の所見非有なり 是の故に唯心と説くと云えり。」(『論』第二・二十九右)

 私たちの心の動きは何が有で、何が無なのか、それを一分説・二分説・三分説・四分説で見てきました。一分は自体分だけ。自体分が有、それ以外は無、遍計所執と捉えています。妄想だと。幻想、私たちは日頃、妄想を見て暮らしていると云う見方です。安慧菩薩は三分で心の構造を捉えられましたが、依他起は自体分のみで、自体分が転じた相・見の二分は遍計所執で幻のようなものであると主張されました。何もないのではなく、心は有るが、計度されたもの、自分の思いで捉えたものは、自分の思いに執着する形で認識されたものであるから真実性はないといいます。つまり、有るのは心だけで、心が二分に分かれた時、自分の思いが染みつき染汚性をもってしまう、染汚性は依他起性ではありませんから無だといいます。
 難陀さんの二分説は「内識転じて外境に似る」。見分のみが有る。認識する心はあるけれども、認識された如く外境は無いという見方です。相分は無であると。見ている対象は同じであっても、私の思いで捉えた対象はそれぞれ違いますね。それでしたら、何を見ているのかということですが、私の心の影、影像を見ているのです。二分説では相分は真実とはいえないと云うことになります。
 陳那さんの三分説になりますと、三分共に有、有ると考えます。自体分・相・見の三分は依他起性である、と。自体分が転じた相分・見分も縁起されたものと見るのですね。自体分は今でいう「あるがままの」でしょうが、転じた相・見の二分も染汚されているとはいえ、染汚という形で有る、それが心の構造ではないのか、というわけですね。縄をみて蛇だと錯覚をしてもですね、私は蛇が苦手ですから、勘違いして震え上がることが多々あります。時と共に有りますから無とはいえないですね。たとえ虚像であったとしてもですね。それが私の心の動きであるからですね。影像をみて迷っている心の構造を三分として見ているわけです。
 護法菩薩は、三分説をうけて、自体分を証明する形で証自証分を立て、四分共に有であると考えられました。迷いだから捨てるというわけにはいかない。捨てられん心が働いている。そういうものを背負っていま生きている、この事実を否定することは出来ないですね。迷いだから、虚像を見ているだけだから捨てなさいといわれて、はいと捨てられるのでしたら簡単です。悩みを解決するのはそんなに大変なことではないでしょうが、そうはいかないのですね。ここに唯識の難しさがあります。スカットしないんです。でもね、迷っている自分が存在していることは確かですね。
 外境は無い、これは確かなことなんですが、外境は有るとして、責任転嫁をして外を責めて苦しんでいる事実は有ります。此処が大事なところなんですね。私は思うんですが、私は苦悩する存在であるとは思っていないのではないですか。苦悩させるものが悪いと。しかし苦悩させるものを悪として苦悩している自分がいることも事実ですね。
 そういうことが、『入楞伽経』の伽他に説かれている、自分の心に執着を起こすことに由って、心は外境に似て、恰も外に本当のものが有るかのように動いていくんだ、と。しかし外境に似て動いていくものは本当のものではない、本当のものは唯だ心だけであると説かれているんです。
 虚像とか妄念とか虚妄という動き方は、必ず執着を起こすのです。自分の心に執りつく、縛りつく、それを性としています。執着を起こしていることが心のSOSですね、助けてという危険信号を発していると思います。

 「述して曰く。第十巻の『楞伽経』に説くが如し。此の頌の意の言く、外境無きが故に唯一心のみ有。執着するに由るが故に外境に似て.ず。定んで外境無し。自心のみ有と許す。心に離れざるが故に総じて一識と名づく。・・・」と釈しています。