唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (6) 処(6)

2015-01-08 21:38:51 | 初能変 第二 所縁行相門
 護法論師、第一の所論には三つの難があるとして論破する一段です。第二計まで述べました。今日は第三の計を論破します。
 下を変ずること用無きの難。
 「又、諸の聖者の有色(ウシキ)を厭離して、無色界に生じて必ず下に生ぜざるべし。此の土を変為するに復た何の用かある。」(『論』第二・三十右)
  諸の聖者が有色界(欲界・色界)を厭離して、無色界に生じた者は必ず下生しないはずである。にもかかわらず、第一師の所論のように、若し此の土を変為するとすれば、何の必要があって此の土を変為するのであろうか。変為できないはずである。土を変為するのは己に受用する為であるからである。
諸の聖者とは、預流(ヨル)・一来(イチライ)・不還(フゲン)・阿羅漢(アラカン)のことですが、『成唯識論』新導本には上流般那含(ジョウリュウハツナゴン)と注が記されています。一来のことです。阿羅漢ではなくて一来を指すんだと。一来は、人と天を往来して般涅槃を得る人のことです。此土において修行を積んでも阿羅漢に成ることが出来ない。煩悩を断じ盡すことが出来ずに一生を終えてしまう。そうしますと、阿羅漢に成るためにはもう一度生まれ変わらなくてはならない。しかし、一来は修惑の中の五品までを断じ尽くしていますから、欲界には生まれずに色界に生まれ変わる、色界で煩悩を断じ尽くして般涅槃して阿羅漢になるわけです。しかし、そこでも般涅槃できずにですね、もう一度欲界に生れて、此土で煩悩を断じて般涅槃する、一往復するわけです。それで一来と名づけられている。預流は聖者の第一段階、聖者の流れに入った者を預流という。もう一つ上の段階が不還です。二度と此土には戻らない聖者のことです。欲界と色界を往来することが無い位です。不還は此土で煩悩を断じ尽くさなくても、上界で阿羅漢になれるわけです。その聖者は有色界を厭離して阿羅漢になったわけですから、この迷いの欲界には生まれることはないのですね。「本と土を変ずることは本と身の用と為るを以ての故に」。
 小乗の聖者を指していますが、大乗では二乗ですね。声聞・縁覚(独覚)です。これらの聖者は自利のみですから、二度と迷いの世界には戻ることはないのです。大乗の聖者は菩薩です。利他行を行する者ですね。もっというとですね、佛は無住処涅槃に住しておられますから、佛が菩薩として一切衆生海を尽さんと願いを立てられ、凡夫と共に奈落の底に落ちて、凡夫が目覚めをする時を待つ存在なのでしょう。ですから、この科段は小乗の聖者は下を変為することはないとして論破されているのですね。
 お釈迦様は仏陀となられ般涅槃されましたが、今現在説法として菩薩行を歩まれています、無辺の生死海を尽くさんが為にですね。>それが象徴的に語られているのが、従果向因の菩薩、法蔵菩薩ですね。