唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (12)  無漏種子 (2)

2015-01-28 21:17:04 | 初能変 第二 所縁行相門
 唯識性についての学びです。三性がでてまいります。三性は、遍計所執性・依他起性・円成実性ですが、この三性についての注釈です。
 『論』の注釈によりますと、遍計所執性は虚妄である。自分の計らいで捉えているだけのもの。自分の計らいで捉えたものは虚妄だ、しかし、いうなれば裏付けがない。自分の無手勝流だ、と。でも、そこに貫く真実が働いている、それを諸法の勝義である勝義無性即ち円成実性であるということですね。これが真実だと。真実は虚妄を通して触れていく世界。虚妄も真実も依他起性であるならば、虚妄が有り難い。虚妄に手を合わせることに於いて真実に触れていくのでしょう。そこに阿弥陀の本願は確かに働いていますね。本願に頷いた時、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」。利益ですから、無上涅槃のの益ですね。虚妄が転じて真実に生き得る道が開かれる、頷けば、開かれていたことに気づきを得るのでしょう。そこを「唯識の実性なり」と云っているのではないでしょうか。唯識性と唯識実性、なんと含蓄のある言葉ではないでしょうか。
 先程は阿弥陀の本願といいました。阿弥陀の本願はどこに働いているのか、唯識は本性住種姓と云っているように思います。護法合生義に於いて少し触れていました。本有種子を本性住種というのだと。「一には本性住種姓、謂く無始より来た本識に依附し法爾に得る所の無漏法の因なり。」 人間の中には本来的に備わっている無漏法の種子が宿っているんだ、そういう性質が有ると見出したわけですね。経典には何の説明もされていませんが、私たち人間も含めて命ある存在は、無漏法の因が阿頼耶識の中で働いているということになりはしないのかと思います。それは働き(用)ですから不離識なんですね。無漏種子も識に離れずということに違わないということになります。
 元に戻りますと、無漏法の種子はどうなのかというといに対して、無漏法の種子は凡夫であっても、菩薩であっても第八識に依附している、依附しているものですから、第八識が変現したものではなく、所縁となるものでもない。従って第八識の有漏法に摂められるものではないということです。しかし「所縁に非ずと雖も而も相離せず。真如の性の如く唯識と云うに違せず。」。所縁ではないけれども相い離れたものでもない。真如は第八識に離れずに働いている。有漏でもなく、第八識が変現したものでもないが識に離れてあるものでもない、ということを明らかにしたのです。
 この辺の事情を『述記』は「識に離れざるに由るが故に唯識と言う。此の意は即ち是れ識に離れて外に別に実物有るものに非ざるが故に。真如性の識変ぜずと雖も、識に離れて外に無し。故に唯識と名ける。唯識は但だ心外の法を遮する故に。」と釈しています。
 自分の外に何らかの対象を立ててそれが実に有ると思う、その心を心外の法といい、そのような対象はすべて心の外に想定された虚妄なるものであって、実の法ではないといいます。依他起性なんですね。依他起を執すると遍計所執になる、それが虚妄ということです。依他起そのものが円成実性という真実である。
 ここは何を言わんとしているのかですが、一言で云うと、「執」ですね。執我から離れなさい。執している限り、本願も自分の手柄にしてしまいますよ。私たちは一生涯執我から離れることはできないけれども、善き人を通して教えに遇い、命と共に働いている阿弥陀の本願に頷きを得る時、「摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」 という大般涅槃の証しを得るのではないでしょうか。親鸞聖人は、康元二歳丁巳二月九日夜 寅時夢告云に「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」と超証されています。