唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (12)

2015-01-23 22:08:05 | 初能変 第二 所縁行相門
 阿頼耶識の所縁について、先ず広く処について説かれていました。処とは、器界(器世間)のことですが、器世間は阿頼耶識が変為した所縁である。能変に対する所変、所変を以て自の所縁と為す、と。「阿頼耶識は因と縁との力の故に、自体生ずる時には内には種と有根身を変為し、外には器を変為す」。説明しますと、それぞれが異なっているように思うのですが、一つの事柄のあらゆる側面は同一時間に於いて生起することを表しているのですね。具体的には現行です。現行は果になりますから、阿頼耶識の果相は異熟です。異熟において現行している。その背景に因があるわけです。私を成り立たしめている背景ですね。無始以来というのは成劫で押さえられていました。私の命は無始以来の因を以て産声をあげたのです。産声をあげた時に、無始以来の因は果につながっているのですね。果が因を証明したわけです。異熟は無覆無記ですから、純粋透明な識なのです。因は悔やんでも悔やみきれない様々な我執に覆われているのでしょうが、身が引き受けている現在は無色透明であるということに驚きをかくせません。なんと素晴らしいことでしょうか。しかし、過去を悔やみ、後悔の念にさいなまされるのは現在を引き受けることができない愚かさであるのでしょう。どこまでも我執の深さを教えられるばかりです。
 略説では「執受と(処)とは倶に是れ所縁なり」と。執受は種子と有根身です。種子について再論されます。種子の定義は「本識の中にして親しく自果を生じる功能差別」であると云われていました。行相は了別である。阿頼耶識の働きはあらゆるものを区別しているのと一にして、種子もあらゆる経験を区別して、種子とし阿頼耶識の中に熏習しているわけです。同時因果と云われている所以です。体は阿頼耶識で種子は用になります。
 即ち、第八識は種子と有根身とを執持して自体とするものである。第八識は能執受、種子・有根身は所執受という関係ですね。所執受というところから所縁であり、能縁の用はないわけですから、第八識の見分の所縁となるわけです。所縁即ち相分です。
ここで種子を細かく分析しているのです。諸の種子というのは、異熟識の所変としての種子であり、此の種子は有漏法である。有漏法の種子である。何故ならば、阿頼耶識は有漏法であるからである、と。無漏の識は仏のみと云っているわけです。第七地までが阿頼耶識、第八地已上仏果までが異熟識、仏は一切種子識。仏果は大円鏡智という智慧のあらわれですが、異熟識という場合は業報の果ですね。有漏の業果、所謂、因は是れ善か悪、果は無記、この無記が異熟識です。仏果に至るまでの菩薩は業報の果としての体を持っているわけです。業の果報としての身をもっている。業の果報を縁として仏道に向かうのか、業報を受けることができずして、恨みをもって生きていくのか、不足だらけの人生を送るのかの分岐点になるわけですね。業報の果を他の責任として遍計所執するのか、業報の果を自らの責任として依他起の身を生きるのかが問われているわけです。
 本文は明日から記載します。