唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 所縁について(4) 処(4)

2015-01-06 22:06:37 | 初能変 第二 所縁行相門

 
 「諸の有情の所変各別なりと雖も、而も相いい相似たり。処所異なること無し。衆の燈明の各遍じて一に似るが如し。」(『論』第二・二十九左) 有情の所変は各別である。私と貴方とは同じ世界を生きていると思っていますが、各人それぞれが思い描いた世界をもって生きていますね。それぞれ異なった世界を作っている。しかし、「処所異なること無し」で生きている場所は異なることはない、共通している。
 例えば「衆の燈明の各遍じて一に似るが如し。」。衆は衆生の衆です。あつまり、多くの集まりという意味になります。多くの燈明が闇を照らしている光景を見受けますが、それは一つ一つの燈明が相依って一つの光となって闇を照らしているのですね。それと同じように、処というのは人それぞれ違う世界を生きているけれども、共通した場を持って生きている。器世間とはそういうものである、と。器世間は私の心が作りだしているのですが、作りだした場は共通している。私の心が作りだしている根拠は、共相・不共相の種子から生まれてきたもの、ということですね。
 簡単にいえばですね、今年の新年会どこそこで、会食をしましょうと約束をしますと、その当日、皆な集ってきます。これは共通した業を持っているからですね。或は、国別対抗のスポーツでいいますと、日本人ならば日本びいきをします。これも同じ共通の業をもっているからです。それは他の国の人たちにもいえることですね。これは、第八阿頼耶識は人人唯識ですから、それぞれお一人お一人違います。お一人お一人の変現するところは違うのですが、それがあたかも一つであるかのように表れているのが共相で、その中身はそれぞれ違いますから、不共相といわれているのですね。そのことを喩でもって示しているのです。
 ここから諸師の説が述べられます。問は、
 「誰か、異熟識が此の相を変為す。」(『論』第二・二十九左) 
 「処所に本識が所縁なりと知ると雖も、誰か異熟識が此の相を変為す。能変の者を問す。・・・」(『述記』第三本・六十一左)
 (それでは)みんなが世界を変現しているのだけれども、一切合財本当に変現しているのですか?だれがだれの異熟識を以て処を変為しているのですか?阿弥陀如来は浄土を変為しておられますが、私の心は浄土を変為していますか?これが問いです。それに対して、諸師の答えが出されます。