デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ジャン・フランソワ・ミレー「落穂拾い」(1857)

前回少しだけ触れたバルビゾン派であるが、その発生についてもう少し書こう。
画家たちがバルビゾン村にやってくるのは1820年代に入ってからである。1824年にはバルビゾン村に一軒しかない宿屋兼居酒屋のガンヌ親父の店ができ、行商人や芸術家たちがガンヌの店に滞在した。以降、ガンヌ親父の店だけではなく、村に居を構えて創作に励む芸術家たちも出てくる。
1860~1870年代になると、バルビゾンは名声と栄光の場所になっていたのだが、その名声と栄光を得るにあたり大いに貢献したのがミレーの作品である。

ミレー(1814-1875)はグリュシーという寒村に生まれた。生まれた家は、代々農家をやっていたが、ミレーはデッサンの才を発揮する。農家を継がせることを諦めた父親は、シェルブールの画家の下に弟子入りさせ、ミレーは1836年にはポール・ドラロッシュのアトリエに入った。ドラロッシュはミレーの才能を見抜き、ローマ賞に挑戦させるが失敗する。その後、ミレーはルーヴルでの模写で独学する。
1840年には初めてサロンに入選し、シェルブール市議会が購入するが、作品が当時の評価基準であった理想化された作風ではなかったので、ミレーの作品は市議会からの受け取りを拒否される。
翌年には結婚するが、病弱だった妻はその3年後に他界する。1844年末ごろに生涯の伴侶となるカトリーヌ・ルメールと知り合うが、誇り高いミレーの実家は宿屋の下働きだったカトリーヌとの結婚を認めず、二人は駆け落ち同然でパリに出てきたのだった。それからの生活は子供も生まれたこともあり、困窮したものになった。
1848年の二月革命がミレーの作品を世間が注目するきっかけを与えた。共和制政府がミレーの筆による道路工事をする人たちや、農村の労働者を描いた作品を購入するようになり、ミレーは本人の自覚はともかく、まわりから強烈な共和制主義者と見なされるようになる。尤も、ミレーの作品を理解したのはフランス以外のアングロ=サクソンの人々という一面もあった。外国でミレーの作品が購入され始めると、その後の作品の値段も上がっていった。当然、保守的な体制を支持する人々からは睨まれることになった。
1849年、ミレーは妻と子供とともにバルビゾン村にやってきた。コレラを避けてのことだったが、その後ミレーは村に住み着くようになり、村に滞在していた自然への讃美と反アカデミーの姿勢をもつ芸術家たちと親交をむすんでいく。(もっともバルビゾン派の画家たちとは、1849年よりも前に交流があった)
「落穂拾い」が描かれるまでのミレーの略歴を、大雑把ではあるが紹介した。ミレーは結婚した妻ともども、けっこうというか、かなり苦労している。しかし、生まれた場所や、移り住んだことのある場所の風景を讃美していたのか、ミレーは彼の特徴である空の開けた、明るい風景画を数多く残している。
開けた風景画ともいえる「落穂拾い」は、畑の所有者から許可を得て自分たちの食べる麦を拾っている女性たちが前面に描かれている。下を向き懸命に作業をしている彼女たちは、もちろん畑の所有者でなく、また所有者に雇われている身でもない、最下層の人々である。遠くには積み藁や収穫人、畑の所有者?らしき人物が馬に乗って、こちら側に目をやっている姿が描かれているが、それらは広大な畑とともに薄っすらとしか見えないので、彼女たち姿が前景に取り残された形になっているのだ。だから、絵を見るものにとってはなおさら、この絵から受け取るメッセージが強調されるのだ。
このテーマは形こそ変われど、現代にも通じている。いつだったか、TVCMにこの絵が用いられていたことがあった。それは彼女らが作業している畑の手前に立派なアスファルトの道路があり、そこをスポーツカーが高速で通り過ぎていく車のCMだった。CM制作の表現にもいろいろある、という意見もあるだろうが、私は正直寒々としたものを、感じざるを得なかったことを覚えている。

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