関係する大企業4つがすべて今週の休業を決めた。
回りまわって、出荷停止のお願いが回ってきた。
昨日、今週の我が社の休業を決めた。会社に近い従業員が1名、留守番と決めた。
G件T市やO市は1つだけある鉄道が止まっている。
バスなどはほとんど無いに等しい・・・
皆、職場には20キロから40キロの通勤距離を車で移動する。
だから、人口辺りの車の保有数が、1位G県で、N県・Y県の3県がトップを競っている・・・
ガソリンが売られていない・・・・そのガソリン・・被災地がひどく不足していると言うから・・・悩ましい話だ。
コメが日本中余って、農家に作るなと言っている時代、スーパーからコメが消えているってんだから、どうしたのこの国?
本日から百姓だな・・・・
さて、記事は、この時期不謹慎かもしれない「旅日記」・・・・
これは、3月5日の話だ・・・
暫らく「旅」も行けないな・・・こんな記事ですまん!
前から気になっていた場所。今日はそこを訪ねた。
テーマは「元禄・忠臣蔵」そして「江戸の町探訪」の2本立てである。
最後に、おまけも付いている。
まずは、回向院を訪ねる。
あの時、吉良邸で、成就の後、まず一行が向かった寺。
拒否をされ、泉岳寺へ向かう。拒ばまなければ、今頃「回向院」の名はとどろいたに違いない。
回向院の東の道路を南下。ほどなく左に折れれば、「吉良邸跡」である。
外には赤穂浪士の碑・中に入ると吉良さんが鎮座。
良く整備され、神社や、説明書きなどあります。
べーべーが二人、僕のように訪ねていました。
首荒い井戸・・・
区画整理で、屋敷跡は変貌し、僅かに住民が寄付し、江東区が整備したこの場所(写真の黒い部分・松坂町公園の名称)が名残をとどめるのみですが、それでも残っているのはリッパよ!
近くの店には、「ご自由にと、パンフ」などがありまして・・・
見張りの為、吉良邸の前に店を構えた「前原伊助」の店跡とか、あの安兵衛の住んだ辺りとか、歩きまして・・・(多分この辺・・・とね)
深川界隈にやってきまし・・・
昼時、おなかは空いて、のども渇いていまし・・・
歩いた後は、喉が乾く・・・
あさり丼は実に旨かった。
第二の目的地「深川江戸資料館」。
江東区は、天正年間に摂津の人、深川八郎右衛門が深川村を、万治年間に相模の人、砂村新左衛門が砂村新田をそれぞれ開発したのを始めとする比較的新しい町らしい。やがて、江戸市中に近いことから、江戸の発展につれて多くの神社・寺院が移転してきたことや、河川が多く水運に恵まれていたことから観光地・行楽地として、そして大都市東京の経済活動を支える中心地として発展してきたようである。
江戸期の深川の風景が実物の建物で再現されている。
ちょっと見、あの、「江戸東京博物館」とコンセプトがかぶるが、江戸の町並みでは、明らかにこちらのほうがリアリティがある。絶対、その部分はこちらをお勧めすると確信した。
お金持ちの「船宿」と、庶民の「ぼてふり」の長屋。
長屋には、共同トイレとゴミ箱。肥料は、農民が買い、ゴミも垂れ流しでは無い、江戸が見える。
共同の井戸には、流し・・・その下水は、下水道が整備されて、100万都市江戸の衛生を支えたのであった。
お金持ちの「かまど」と庶民の「かまど」。
再現は、時代考証と、まがい物ではなく、しっかり材料にまでこだわって、再現したようである。
資料館を出て、西隣にはお寺。ってか、周辺はお寺だらけだった・・
あの、老中・松平定信の墓などある。寛政の改革の立役者である。
白河の 流れに魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき
ことのほか、境内の梅が綺麗でした。
寺や博物館への道路には、綺麗で、景観もよろしい公衆トイレなどもあります。
しかし、江東区・人口47万だと。
T市は、8万余・・・・・・・東京の区って、行政も半端ではないのだろうな。
さらに西へ100mほどで、清澄通り。道路の反対側は、名勝「清澄庭園」であります。
紀伊國屋文左衛門の屋敷跡→下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷→岩崎弥太郎が買取、整備のようです。
確かに岩崎ゆかりで、六義園と何処と無く似ています。
全国から集めた、大きな名だたる「石」も素敵。
池の鯉は、人間が近づくと、すぐ口をあける体たらくだが・・・・
静かで、思ったより人も少なかったな。
これは、僕に言ってるのかも?
キノコはこの奥にありそうだったから・・・・
でも、基本、地面に笹が多いので、六義園程のワクワク感はありません。
震災・戦災なかりせば、もっと良かったに違いないね。
隣接のこれまた広大な敷地は、清澄公園として整備されてるようである。
オニギリなどもって、くつろぐのもいいかも?
今度は、この地、女房など連れてくるのだ。エライ!
ながいの、読んだ?
ありがとう。
回りまわって、出荷停止のお願いが回ってきた。
昨日、今週の我が社の休業を決めた。会社に近い従業員が1名、留守番と決めた。
G件T市やO市は1つだけある鉄道が止まっている。
バスなどはほとんど無いに等しい・・・
皆、職場には20キロから40キロの通勤距離を車で移動する。
だから、人口辺りの車の保有数が、1位G県で、N県・Y県の3県がトップを競っている・・・
ガソリンが売られていない・・・・そのガソリン・・被災地がひどく不足していると言うから・・・悩ましい話だ。
コメが日本中余って、農家に作るなと言っている時代、スーパーからコメが消えているってんだから、どうしたのこの国?
本日から百姓だな・・・・
さて、記事は、この時期不謹慎かもしれない「旅日記」・・・・
これは、3月5日の話だ・・・
暫らく「旅」も行けないな・・・こんな記事ですまん!
前から気になっていた場所。今日はそこを訪ねた。
テーマは「元禄・忠臣蔵」そして「江戸の町探訪」の2本立てである。
最後に、おまけも付いている。
まずは、回向院を訪ねる。
あの時、吉良邸で、成就の後、まず一行が向かった寺。
拒否をされ、泉岳寺へ向かう。拒ばまなければ、今頃「回向院」の名はとどろいたに違いない。
回向院の東の道路を南下。ほどなく左に折れれば、「吉良邸跡」である。
外には赤穂浪士の碑・中に入ると吉良さんが鎮座。
良く整備され、神社や、説明書きなどあります。
べーべーが二人、僕のように訪ねていました。
首荒い井戸・・・
区画整理で、屋敷跡は変貌し、僅かに住民が寄付し、江東区が整備したこの場所(写真の黒い部分・松坂町公園の名称)が名残をとどめるのみですが、それでも残っているのはリッパよ!
近くの店には、「ご自由にと、パンフ」などがありまして・・・
見張りの為、吉良邸の前に店を構えた「前原伊助」の店跡とか、あの安兵衛の住んだ辺りとか、歩きまして・・・(多分この辺・・・とね)
深川界隈にやってきまし・・・
昼時、おなかは空いて、のども渇いていまし・・・
歩いた後は、喉が乾く・・・
あさり丼は実に旨かった。
第二の目的地「深川江戸資料館」。
江東区は、天正年間に摂津の人、深川八郎右衛門が深川村を、万治年間に相模の人、砂村新左衛門が砂村新田をそれぞれ開発したのを始めとする比較的新しい町らしい。やがて、江戸市中に近いことから、江戸の発展につれて多くの神社・寺院が移転してきたことや、河川が多く水運に恵まれていたことから観光地・行楽地として、そして大都市東京の経済活動を支える中心地として発展してきたようである。
江戸期の深川の風景が実物の建物で再現されている。
ちょっと見、あの、「江戸東京博物館」とコンセプトがかぶるが、江戸の町並みでは、明らかにこちらのほうがリアリティがある。絶対、その部分はこちらをお勧めすると確信した。
お金持ちの「船宿」と、庶民の「ぼてふり」の長屋。
長屋には、共同トイレとゴミ箱。肥料は、農民が買い、ゴミも垂れ流しでは無い、江戸が見える。
共同の井戸には、流し・・・その下水は、下水道が整備されて、100万都市江戸の衛生を支えたのであった。
お金持ちの「かまど」と庶民の「かまど」。
再現は、時代考証と、まがい物ではなく、しっかり材料にまでこだわって、再現したようである。
資料館を出て、西隣にはお寺。ってか、周辺はお寺だらけだった・・
あの、老中・松平定信の墓などある。寛政の改革の立役者である。
白河の 流れに魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき
ことのほか、境内の梅が綺麗でした。
寺や博物館への道路には、綺麗で、景観もよろしい公衆トイレなどもあります。
しかし、江東区・人口47万だと。
T市は、8万余・・・・・・・東京の区って、行政も半端ではないのだろうな。
さらに西へ100mほどで、清澄通り。道路の反対側は、名勝「清澄庭園」であります。
紀伊國屋文左衛門の屋敷跡→下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷→岩崎弥太郎が買取、整備のようです。
確かに岩崎ゆかりで、六義園と何処と無く似ています。
全国から集めた、大きな名だたる「石」も素敵。
池の鯉は、人間が近づくと、すぐ口をあける体たらくだが・・・・
静かで、思ったより人も少なかったな。
これは、僕に言ってるのかも?
キノコはこの奥にありそうだったから・・・・
でも、基本、地面に笹が多いので、六義園程のワクワク感はありません。
震災・戦災なかりせば、もっと良かったに違いないね。
隣接のこれまた広大な敷地は、清澄公園として整備されてるようである。
オニギリなどもって、くつろぐのもいいかも?
今度は、この地、女房など連れてくるのだ。エライ!
ながいの、読んだ?
ありがとう。