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小学校の同窓会があった。
栄オアシスからバスで行く予定をしていたら、息子が乗せて行ってやると言う。二時間かかるところを半分の時間で着いたは良いが、直ぐに判ると思っていた料亭が判らず右往左往した。
始まってみると昭和十四年に八十三名で入学した同窓生の出席率は、何と当日二名のキャンセルがあり十三名きりであった。
宴たけなわになると物言いや性格は皆昔のままで、小学生に帰ったようで懐かしかった。
物故者は五十%を上周り転居不明も五名もなので、もう町内別に幹事を務めてやって行くのは辞めようと余剰金の分配として名物の「孫六せんべい」を一箱づつ配ってくれた。
振り返れば入学当初は筆記具は石筆板であった。二年生になると、雑記帳、消しゴム、鉛筆、セルロイドの下敷きを学校の並びの文房具屋で購入した。
昭和十六年十二月八日、初等科三年(尋常が変わって)の時太平洋戦争が始まり、一年も経つと、藁草履を履き防空頭巾を被って登校をしていた。
田原村に軍用施設が作られるため、西校舎は陸軍の兵隊が宿舎として使い学校の近くの美貴ちゃんの(今日私の隣に白大島を着て腰掛けていた)家は軍人数人が住み家族は離れの一室で生活していた。
ズック靴は配給で食料事情も悪くなる一方で津保川の河川敷を雪の降る日に青年団と一緒になって開墾したり、かちかちの運動場を耕して麦や芋を作って供出し食料増産の一助としたりして勉強の出来る状態ではなかった。大平賀の山の中腹から道まで背板に薪束をしょって運んだ。田植、蝗捕り、桑の木の皮剥きなどをする中で二十%ほどは中等学校の受験に兆戦した。
唯一卒業式のできなかった年度の生徒であった。高等科の二名は義勇軍に志願して行った。昭和二十年八月十五日終戦となり村は二分され、それぞれ隣接の町村に合併されて事実上富岡小学校は廃校となった。
それでもあの時の同級生は出来なかった修学旅行をしたりして仲良く七十年余を時代の変化と共に歩んできた。今後も一つずつ夢を抱いて進みましょうと,頭数の多かった私達の町内の幹事役からの同窓会終結宣言となった。
俳句 柿若葉ほうはいとしてクラス会
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