おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

   挨拶

2008-10-24 10:47:09 | Weblog


 夫を先にあの世へ送った者同士が寄ると必ず話題になることは夫の最後に「ありがとうと言ってもらった?」と言う会話である。そのような言葉を貰ったと 喜ぶ人は、看取りの期間があった人達で、突然逝かれた場合には、有ったのか、無かったのかはっきりとした記憶はない。

 しかし具体的なシーンは無かったとしても、それは夫婦のみが知る折々の態度や会話の中で確信に満ちた記憶として残っており、夫と妻の最後の「挨拶」である。

私の場合、夫は「こんな俺に一生ついて来てくれて感謝しとるよ」「何言ってるの」「あちこち連れてってくれてなあ、ありがとうな」と言ってくれたことがある。だが私が夫を連れて行ったことは、一度も無い。

 「どこへ」「お伊勢さんや方々へ」と、とっさに夫との伊勢旅行は三回きりで皮肉を言われているのかと思った。

 最初はまだ子供が小さい頃、二見が浦で馬車に乗ったり裾をたくしあげて海辺で水に浸かったりして遊んだ記憶がある。

 二度目は私が会社に勤務していた頃、営業成績の報奨として初詣切符をもらったので、これを利用し二人で出かけた。

 このとき、買ったサザエの入ったケースを肩にかけ、電車を待つ間三種の神器の話をしてくれた夫の横顔が今でも記憶に残っている。

 亡くなる前の年に、お隣さん夫婦と観光ホテルに一泊で行った。おかげ横丁を歩いている写真とか、自称セミプロの夫が、からおけのマイクを握って唄っている写真とかがあるからそれが嬉しかったのか。

 正月に恒例の家族の新年会をしたとき、待ちくたびれて独りお酒を飲んだ夫は、主の席につくことをせず、やぐら炬燵から出ようともしなかった。

 京都の大学へ帰る孫を送って一晩泊まりで出かける時「本当はおぢいちゃんも行きたいけど今度にするわ」と言った夫。夫を置いて 一日京都で遊んで帰った私に「俺は、もうお前が居らんと駄目だわ」と言った夫。

 強い、きつい、どなると思っていた彼のお別れサインが、こんなに沢山あったのに、気付いてやれなかったなあ、と今にして思う。

 新婚旅行の最初の挨拶がふるっていた。「こうして夫婦になったからには、お互い今迄とは一線を画して、一生懸命やっていく覚悟をして欲しい。それが出来なければ今ここで帰ってくれ」と引導を渡されたのであった。「ふつつか者ですがよろしく」と私は言わなかった覚えである。

 俳句 ○ 白鷺の沢とび立ちぬ夕間暮れ 

    ○ 秋晴れに歩き通して足湯まで

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黒子

2008-10-16 19:11:48 | Weblog

 名鉄バスセンターまでの直行の学院発8時2分のバスに乗った。昨日の雨がうって変わって、今日は快晴である。

 高女同窓会の幹事の私の今日は、黒子に徹しようと衣服も黒っぽいものにした。鏡で見ると何か淋しいので、生成りの絹のスカーフを、首にたらし黒のつばの広い帽子を被って出かけた。淋しかったのはグリーンのイヤリングを手元に置きながらつけることを忘れてきたからであった。

 他の2人の幹事は既に来ていて名鉄グランドホテルのフロアーにテーブルをセットして受付の用意をしていた。

 持参した名簿を並べ会費を頂く箱、席の籤が入ったOさん手製のテッシュ入れ、Mさん提供の可愛いケースに入った皆さんの苗字の軽印(商売をやめたから処分品と言って)など並べて10時の受付時間を待つことしばし。

 やって来た、やって来た、懐かしい顔の面々団体でくるところが、友達意識か。

 30人以上なら記念写真をサービスしますと言うホテル側の意向もクリアし天白からの、最後の1人を待って上の階へ移動して写真を撮った。

 ヘルプの女性が着物の人ばかりをチェックしていた。きっと結婚式の写真を多く手がけているのであろう。

 さあ私の司会の始り「歓迎の挨拶を幹事長から一言、といっても国会ではありません」と言うと皆が笑い、Oさんの挨拶があの頃の勤労奉仕などを彷彿とさせてうまかった。

 「Mさん、乾杯の音頭をお願いします」その場でするのかと思ったら舞台へ上って「こんな高い所へ上ったことはありません」と言い又皆が笑った。

 それからは次から次へと程よく出てくる料理を頂きながら,つもる話に花を咲かせ他所のテーブルに出張したりデジカメを向けたりと宴たけなわになっていった。

 余すところ1時間くらいでホテルのスタッフに、からおけのスタンバイを依頼した。

 唄う人が居なかったらどうしようと思いながら、受付を手伝うつもりで早目に来たTさんの洋服を褒めた時「昔、からおけを習いに行ってたとき買った時代物なの」と言われたのをキープして置いたので「Tさん、皮切りをお願いします」と言ったら躊躇していたが2人ずれで唄い、とぎれそうになると誰かが続けた。

 来年の幹事も決まり「いつまでやるの?」の質問に「2人になるまで」のヤジが飛んだ。

 5分前になったところで「皆さん少女になった気持ちで思いを込めて校歌を斉唱しましょう」とカセットをいれて「清く雄雄しく、つつましく、玉と磨かん我が操」と涙が出るような歌を歌って全員の大きな拍手で幕を閉じた。

 ホテルに支払いをすませ、ラウンジで幹事の3人は、肩の荷が下りたといたわりあって珈琲で打ち上げをした。お互いエレベーター前で、腰まで折る深い深いお辞儀をして別れた。私の黒子の役も無事に終わった。お世話させていただけた。

  俳句  ○ 風そよと月明かりしてちちろ鳴く

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十月

2008-10-05 10:00:34 | Weblog

   秋晴やテニスコートの球の音

 この辺り学校が多いのでテニスコートが何面もある。遠い昔私も部活はテニス部で、ラケットを抱かえて学校に通っていた。

 その内、読書に目覚め、家の本箱から柿色で銀色の文字の背表紙の、蔵書の印まで押してある文学全集を、古本屋へ持ち込んで粗雑な藁半紙の小林多喜二や太宰、志賀直哉などに交換しては父の顰蹙をかっていた。

 そんな頃の女学校の同窓会の持ち回りが、今年は名古屋なので、幹事の三人が昨日は駅前の名鉄グランドホテルへ最後の詰めに行き、担当者と細部をきめてから十八階で、モード学園の捻じれビルを横に見て珈琲タイムを持った。

 同窓会の出席者の名簿をエクセルで打ち込んでいるが、試行錯誤なので人一倍時間がかかる.

今日はミニ句会の前に天白区の区民展覧会を見てきた。

 カレンダーは連日の書き込みで、句会三つ吟行会は半田へ、エツセーは教室が一回と、どこかが取材に来る日と、俳画が一回、同窓会が十五日のこれを入れて三つ、十八日は娘に御園座へ顔見世興行に誘われているし、十一月の三日は甥の結婚式と行事が目白押しである。

 その外に一番気になっているのは、このブログ欄のことである。

 七月末に中日新聞で加藤かな文氏が送って置いた「ブログこの一年、おにゆりの苑」の本を評価して、七行くらい書いてくだすったので、さあ大変。行き当たりばったりな私は、本のタイトルの最後は(苑)でブログは(おにゆりのその)と平仮名なのである。

 新聞を見た人から、売ってないので、ブログで見ようとしても開けないとお叱りを受け、慌ててブログのタイトルを「おにゆりの苑」にしたら、あちらを立てればこちらが立たずと開けにくい状態になったまま、八、九、と二ヶ月も経ってしまった。

 もっとも、ブログgooブログで入れば、親切に導いてくれるのだけど。

 私のこととて未だ名刺も作ってない。早急につくりましょう。 この上は一つづつ片ずけて行くより仕方がない。

 差し詰め今日は、名簿を35部作って、図書館祭りに展示する句の短冊を書こう。俳画もざくろか松茸を描いて今日のこのブログに入れることにする。

 タイトルは「言い訳」では可笑しいだろうから「十月」とするか、とにかく俄か文芸人の(?)秋は忙しい限りである。身辺整理の必要があるようだ。

 俳句○ 太公望逝きたる跡の曼珠沙華

   ○ 案山子田に漫画の家族賑わへり 

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