おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

 花 菖 蒲

2011-06-28 09:42:28 | Weblog

 

   の所属している無限図と言う俳句教室の六月の兼題は「花菖蒲」である。
 先日、文友のグループで東山植物園を歩いた時、もしやと秘かに期待していたが菖蒲には出会わなかった。
 也有苑の近くの池には蓮が咲いていて緋鯉が泳いで居た。タワーから望む景色は勢いの良い万緑の波が南東に拡がっていた。
 そのうち何処かへ花勝負を観に行こうと思っている内に、一ヶ月はあっと言う間に経ってしまい句会まで、一週間程になってしまった。
 今までには子供が小さくて駅から其処までたどり着くのが難儀な頃、鶴舞公園へ見に行った事がある。
 その遠い茫漠とした思い出とは違って、母が遊びに来た時三姉妹と共に四人で妹の運転で知立の無量寺へ杜若を観に行った事がある。
 白い大きな花が園いっぱいに咲く様は圧巻で、そぞろ歩いて写真も撮った。満面の笑みの写真はそこそこ若い親子であるが、人物ばかりで杜若が入っていない。
このあたりに菖蒲池と言う地名があるが、今は菖蒲は無い。
 あやめは実家の花畑に毎年引き継いで咲いていたので当たり前に見ていたが、花菖蒲となると余り覚えがない。
 強いて記憶の扉をこじあけても此処日進にも、以前は沼か小川のよどみのようなところに、咲いていたように思うがその頃一万人に満たなかった人口の町がいまや八万人にもなり、かっての里山や丘がなくなり、市になってしまったので市の観光課に聞いたが心当たりがないそうである。
 岐阜の百年公園が今見頃との事、少し遠いけれどここなら一人で行けそうだから、しげしげとつぶさに見てこようか。
  〇 花菖蒲家紋なりしが嫁ぎけり
 娘に当家の「違い鷹の羽」で喪服を作る時私も仕立て直したがそれまでは「
菖蒲紋」であった。実家では三和土の上に菖蒲紋の付いた黒い箱が並んでいるので訪ねると提灯の箱とのことであった。
 裃をつけて、灯の入った提灯をかかげて歩いた先祖が居たのであろう。、花嫁は実家の紋を入れた衣装を携えたものである。装束は時代につれて変遷するが、池に咲く菖蒲は永久にそのままの可憐さなのであろう。早く見に行って一句を携えて句会に望まなければ。

   俳句  タワーより万緑の波眺めけり

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小松ドームへ行った

2011-06-17 20:23:19 | Weblog

梅雨明けは未だである。
 
兼ねてより予定が組まれていた尾張東地区のゲートボール大会が石川県の小松ドーム(愛称ゆめ卵)で行われ、日進は十一名が参加した。
 市役所を七時二十分にチャーターしたバスで出発し東郷は三箇所で三十余名を乗せて三好インターから養老まで走った。
 そこでバス三台が合流した。皆さん毎年の常連らしく帽子もジャンパーも靴もそれ相応の選手らしい出で立ちであった。私はプライベートだから服装は自由と言われていたのを真に受けて、観光旅行並みのしゃれた格好をしてきてしまった。
 
お昼はバスの中で弁当が配られ、ドームへ着くと一勝一敗の二試合を戦った。年寄りがよくもこんなに規律正しく整然とルールに従って遂行出来るものだと感心する。勝っているチームの決着を待ち丁度良い五時半頃、粟津温泉「花乃庄」へ着いた。
 
大広間に百五十人もが膳の前に勢ぞろいすると壮観である。
 お酒も料理も進んだところでカラオケも何曲も歌われ、お鉢が私に周ってくると「ゲートボールの失敗を歌でおぎなえってかね」と言いながら三船和子の「他人船」を歌った。
 音程こそはずさなかったが、一寸声が大きすぎたような気がする。カラオケ特有のたんたんとした歌い方が出来ない。
 
翌朝同室の三名で二万五千坪という回遊庭園を散策した。テニスコートもプールもあり、今は万緑に噴水が映えているが、桜や紅葉の時はさぞかしにぎやかであろう。ロビーの喫茶には絶滅といわれた[とき」の彫金の額が飾ってあった。
 帰りに又ドームへ寄り敗者復活戦や、決勝戦をした。昼食をしたガラス館では優勝チームが、誇らしげにカップやら賞品や賞状を受け取った。
 
土産物屋ヘ三軒ほど立ち寄ってくれて、楽しかった旅行は終わった。
 次の日私は、ばてて練習を休んだのに、皆は出席されたらしい。ゲートボールの「もさ」達である。

    俳句 梅雨の日はドームに勝敗展開す

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NHKドラマ[ お ひ さ ま]を見て

2011-06-07 20:06:41 | Weblog

 NHKの連続ドラマ「おひさま」の今朝の放送は、主人公陽子と赤紙(召集令状)が来て一週間後に入隊する蕎麦処の息子との結婚式の場面であった。
 戦前はこのドラマのように嫁ぎ先での結婚式が一般的に行われていた。
子供の頃の私はその家の上りがまちや開け放たれた往来から、芝居のかぶりつき宜しく一部始終をよく見たものである。 今でも昔の街並のあの家の結婚式を見た、この家のも見たと三、四軒は覚えている。
 相手の男性の多くは戦死をしているが不思議と国策通り子供は残している。
 小学二年生の折、私は親戚の結婚式に頼まれてその家のみよちゃんと雄蝶雌蝶になってお酌をしたことがあった。学校から三キロ程を急いで自宅に戻り、さらにまた急いで延長線の二キロほどを歩いて、本格的な高砂の謡いをする叔父がよしと言うまで叔父の家で幾日も練習をさせられた。
 我が家にあった婚礼衣装は頼みに来られると、いつも貸衣装よろしく出払っていた。
 先日息子が「朝ドラ見てる?お母さんの
子供の頃だろう」」と言うので「陽子先生に教えられていた子供くらいだったわ」と答えた。
 小学六年の時受け持ちの女の先生が胸を患い長期休職されたので友達四、五人で見舞いに行ったが、今思えば、毎日竹槍や薙刀の授業が必須であったか
ら欝病だったのであろう。
 他の女先生二人が母の女学校の同級生だったせいか、私は頬を両掌ではさまれ「この子は先生になる子よねー」などと言われたが、戦争が終わるとアメリカナイズの自由主義に当分馴染めず、代用教員の話が来ても三島由紀夫を読んだりしていた。
 朝鮮戦争が始まって「糸偏景気」になったが、実際は結構就職難であった。私が就職した会社の同室の胡桃さんはドラマの舞台と同じ安曇野から中卒に混じって集団就職をして来ていた。
 彼女の
親は学校の校長先生で姉さんも教職についていると言っていた。信州らしくなつめの干したのが送られて来ていたりしたが、親心を思いやっての事であろう一つも呉れる事はなかった。
 「おひさま」の安曇野のドラマの展開が楽しみである。
  
   俳句  木曽路から信濃へ抜けて松落ち葉 
         
        補植する爺と白鷺田の中に

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