二十五年来の文集仲間の新年会は、今年は[蓬莱]が建て直し中とかで、松坂屋本館の東の広い道を挟んだところにある、パークプレイビル十二階の「梅の花」であった。
私にとって此処は前身の松栄食品へ保険セールスとして十七年も通った懐かしいところである。毎日顔を出すので靴を買ってあげねばねーと言われたりした。
五人が欠席で九人が一年ぶりのにこやかな顔を合わせた。
なれそめは西友のカルチャーセンターでエッセー教室を申し込んだ仲間である。
しばらくして西友の都合で、其処では授業が受けられなくなると、高針の郵便局の座敷で(局の男性がいた)そこも追い出されると名東図書館で、携わられた先生が五年ほどでお辞めになると今度は、自分達だけで十年ほど作品を持ち寄っては合評会を開いていた。
やがて解散し二人が栄のアサヒカルチャーへ行き、四人は自分史の「ふだんぎ」へと流れた。私は一年のブランクの後地元で俳句を習い始めた。
そんな中、同好の士とは良く言ったもので、誰がどんな文を書くかどんな傾向か知りつくしている。
毎年新年会を欠かさずするうち、文集は荷が重いけど通信ならとアサヒカルチャーへ行ったIさんが言いだして、切手を貼った封筒を送って置くだけで、十五日締めの達者な仲間の文章がA四版三枚の名称「もめん通信」として来るようになった。
休むことなく月一回もう七十回を数える。無論無償である。好きでやってくれるのだからと言う事になっている。今月号の彼女の「お正月こぼれ話」の冒頭に、私は私のおうちがなかったけれど、今は私のうちへ帰ってくる家族がいる。生きているってステキ!孫は四人になりましたとあった。
戦争が原因で両親を亡くした彼女は、親の出身大学の夜間を出て単身篠島の先生になった経歴の持ち主で、小説に出来るほどの(現に二三冊は出している)有為転変のある方で、どこかの極楽とんぼとは大違いで芯が通っている。
梅の花の豆腐料理を堪能した後、 中日ビルのサンモリッツへ移って気心の知れた者同志、短い冬の日を長々とおしゃべりをした。
俳句 ○ 料亭の床に一輪女正月