おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

 こ の 一 年

2009-12-29 11:16:43 | Weblog

 有難いことに年間通して健康であった。
「禍福はあざなえる縄の如し」イタリヤ旅行の余韻の覚めやらぬ内に母が亡くなった。
 人間しぶといもので、計り知れない心の痛みも夫とか母とか、なるべく向き合わないようにして日を送ってしまう。 引きずられて沈潜し欝の沼にはまり込みたくない。
 そのぶん題目を送る。朝晩朗々とあげると言えば聞こえは良いが怠けてばかりいる。惰情の中に居ると楽である。
 とは言え毎年同じような繰り返しを一生懸命にこなしている。今年も葬儀が六回、法事が一回、同窓会が三回、同期会が二回旅行が大小日帰りや吟行も入れて六回、近場の温泉え十回。
 贈ってきた本が十冊、こちらが配ったのがこの「おにゆりの苑」図書館や交流館入れて二十五冊、読書月一雑誌も月一、このブログの更新が五十回従って下手な俳画も同じ数、新聞を一日二時間。
 
所属している教室は四ケ所、スポーツは週三回のゲートボールなどと、自称統計屋の数えた所はこんな所であるが、狭庭の手入れや自分の炊飯もして、性分とは言え走り回って来た。
 七月から入会して得たゲートボールの仲間は、二チーム以内で人数も少なく人生の苦楽を通り越してきた人や、病身の連れ合いを看ながらの人達なので、日頃の読む書くを忘れて違った顔で聞き役に徹しようと思っている。
 今一つ気がかりなのは八月に黎明とまで喜んだ世情のことである。鳩山内閣が金銭問題、普天間基地、政府の予算支出の方法などで、足を引っ張られっぱなしで一日として安穏に政治に携わるすきがない。
 政権交代時のドラマをもう少し先の見えるまでやらせてやる訳には行かないだろうか。

  俳句  敬虔に野山に問ふて去年今年
      インフルエンザ注射をせずに去年今年

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 師  走

2009-12-24 14:23:16 | Weblog

 天皇誕生日の祭日、娘はクリスマスイブのその又前夜祭だからと、お昼を外でと誘ってくれていた。
 
私はイルミネーションを写真に撮ろうと、心待ちにしていた。
 ホテルアソシアへ行ってみると、一時間半待ちなので、加賀屋で和食のコースをご馳走になった。じぶ煮も美味しくて私はこの方が良かった。
 洋服を買ってくれると言うので、新年会用にと、ロングスカートをと言って高島屋と松坂屋を探したが、薄手の材質ばかりで思ったものが無い。
 試着を強いるので、嫌がって険悪な状態になる。
 いつも、きっちり躰に合うものを納得のいくまで探す娘と、フィーリングで買ってきて必ず手直しをしなければならない私との違いである。
 諦めて県美の書道展へ行き娘の姑様の作品を観る。達者な字で今年は「頂間眠」の大きな額である。
 その意味も由来もしらないまま、芳名録に署名をした。地下街を歩いていると、シルバー専門店に私に合う物があって上下を買ってくれた。
 地下街の振興会の籤をくれたので、良くあたる娘は「宝くじに運をとって置きたいから当たらなければ良いけど」と笑いながら引くとりんをならして「当たり」の大声で千円があたった。
 化粧品を買っている私にその券をくれて帰って行ったので、私は
イルミネーションを写真に撮ろうと名駅へ引き返した。
 一昨年来た時のように華やかで歩けないほどだった街を期待していた私は、そのさびれた様相に吃驚した。
 それでも駅舎の壁は、お城がモチーフで、橇を引くとなかいや少年少女がメルヘンチックに赤やみどりや紫や白で点滅して、観るものをロマンチックな気持ちにさせている。
 夕方時雨れたせいか、舗道の木々のイルミネーションは美しくしずかに輝いている。
 やはり世の中は不況である。河村市長が名古屋弁で「今年は、こんなもんだぎゃー」というのが聞こえてきそうである。
 来年は建て直されるからと、昼食事にアソシアホテルの展望で大名古屋ビルの全景を撮ったのが今日一番の記念かと、パソコンに取り込んでいる。

  俳句 赤き実を隠しそしらぬ初の雪

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小学校の百年誌

2009-12-16 14:24:34 | Weblog

 戦後私の住んでいた村は東西の隣接する町に合併して呼び名が無くなった。
 いろいろもめたようである。村に一つの小学校も、それぞれ併設された。
 60年も経って親友のTちゃんから、「大丘山の下の小学校」の百年誌を見せてあげると送って来た。
 開いてみると凝縮された100年の歴史をそこに見た。
 横罫の段落には年度に従って校長、村長、時事等が表になっている。祖父が村長をしたのは明治41ねんから5年間である。
 
卒業生の名簿で見ると、父と叔父の歳の差は7歳で叔母達の名前もある。私達姉妹は私だけが、卒業していて、妹は5年生と2年生で町の小学校に移っている。
 時々の学校行事の写真が載っていて、運動会のは写真屋をしていた叔父が撮っている。
 昭和20年度の卒業写真は載せてあるが、私達19年度は戦争で卒業式もなかったので、無い。 寄稿文も編集されている。
 入学式で行進をするのに足と手と同じ方側を出して隣の子に笑われた事。
 
忘れ物を取りに家に行かされると走っても2キロ半は大変で学校にたどり着いた頃には、それの授業時間は終わっていたこと。体操の時間によくこの前方後円墳のある大丘山に登り地すべりなどをして楽しかったこと。
 5年生の時級長をしていた私は、警戒警報なのに、クラス全員をこの山に避難させてしまって、職員室ですごく叱られたことなど思い出した。
 
Тちゃんから請求電話で東京の弟さんのところへ、送るように言って来たので今小荷物で出してきてしまった。
 入学前に京都から越してきた彼女の家はもう兄弟は大きかったのでこの学校を卒業しているのはこの二人だけである。
 私のところに何故かこの百年誌は無いが、母の存命中はよく実家に帰りその都度車から、この学校のなり変わった建物が見えるし大きな銀杏の木も見えた。
 玄関に「うさぎ追いしかの山小鮒釣りし・・・」の掛け軸を懸けている割にはいつもINgの私はТちゃんほどの感慨を持ってなかったのかも知れない。
 100年間の卒業生の数くらいは計算して置くべきであった。逃した魚は大きい。

  俳句  朝ドラが夫婦の影を映す冬

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私 の 食 前 酒

2009-12-07 22:52:28 | Weblog

 琥珀色をしたものをガラスの水差しに入れて棚に飾った。
 何の事はない。ロゼ好きな私が、花梨酒を氷やお湯で割って、自称オンザロックだなどと言いながら飲んでいるに過ぎない。
 今年も花梨の五個を乱切りにしてホワイトリカーの三十五度を、1.8リットル広口の瓶に漬けた。
 砂糖は200グラムから300グラムと書いてあったのに1キログラム入りの袋からざらーといいかげんの分量を入れたから又甘すぎるかも。
 春に杏の焼酎漬けを造ったら色は透明で口当たりはさっぱりしていて、甘くはないしで夏中喜んで飲んでいたら、その内に表面に白い膜が張って酸っぱくなって腐らせてしまった。
 三十五度以下のものであったのだろうか。何事も確認しない習性を反省する。
 秋になると多治見の修道院から取り寄せていた赤と白のぶどう酒は、おいしくて一度に一本空けてしまうので、花梨酒をつけるようになって、それは辞めにした。
 おりしもボジョレの解禁でこの秋は、プラスチック入りまで出して千円未満で買えたりする。
 今から思うとボジョレの一本八千円も一万円もするものを冷蔵庫の扉の裏に並べていたりしたこともあった。
 今の私には喉に良いから、花梨酒のお湯割が一番良い。
 それでなくても旅行にでも行こうものなら、又とない銘酒に出合ったりする。
 
この十月にもKKKの友の会で英虞湾が一望できる賢島のホテルで一泊した。
 隣あった八十八歳のHさんは元、飲ませて幾らの繭の買い付けの営業マンであったので、二の膳はおろか本膳もさっぱりお箸をつけずに、徳利を持って会場狭しと渡り歩いておられた。
 これ何の銘柄?美味しいわねーと一献注して上げるべきであった。一年に一回なのに不調法なことであった。
 日本酒がやはり美味しい。

  俳句  御手洗の感触かたし今朝の冬 
      神域を乱す靴音冬に入る

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  綿  虫

2009-12-07 08:35:51 | Weblog

 子供の頃、初冬のどんよりと曇った日には沢山の綿虫が舞った。綿虫は地方によって、さまざまに呼ばれるが、私達の所では「しろとこうもり」と言った。
 町内の小学生は、「しろーとこうもり、てつっあの屋敷」とはやしたてて、越美南線の南側にある哲之助さんの家の広い籾干し場に集まった。
 籾干し場が、秋の役目を終えたのを堺に、子供達の遊び場となりドッチボールや陣取りをして、釣瓶落としの陽が沈むまでにぎやかな声が続いたものだ。
 てっつあんの家は一人息子の出征が決まり、慌ててもらった働き者の嫁さんと、老夫婦の三人で大百姓を営んでいた。てっつあんは戦時下落下傘の布にするため養蚕の済んだ桑の木の皮を供出しなければならず、それを剥くのを、毎日手伝った勤労奉仕の子供達と親しくなった。
 学校の中で唯一県道添いに住むこの分団の子供達は、時節柄日本刀を研ぐ職人長屋の子供達が多かった。私や彼等が遊ぶことの出来る広場がここであった。 
 戦況がたけなわになると、登校しても勉強は思うようにできなかったが、子供達はよく遊びよく働いた。どんぐり拾い、いなご捕り、山からの薪出し、川原の開墾、運動場には芋や南瓜を作った。
 当時食料用に兎や鶏を飼っている家が多く、私は近くに住む親友の清ちゃんとよく畦道へ餌を採りにでかけた。だが清ちゃんの親が直に呼びにきて、御飯を炊かされたり家の手伝いをさせるので彼女とは思うように遊べなかった。
 彼女は家で飼っていた兎の皮をなめしてオーバーとして着ているのがおぞましく思われ、いとしさの余りとはいえ、ずいぶんいじめられた。
 その家も働き手の兄さんが戦死し、終戦後は刀砥ぎの仕事が無くなったためか、ある晩私達が知らない間に家族ともどもどこかへ越して行ってしまった。ラビットと言って彼女の毛皮が上等なものである事を知ったのは清ちゃんが居なくなってからである。
 だが幼友達の春男さんが県外で清ちゃんを探し当て、何十年振りかで同窓会に出てくるようになった。私達は再会を喜び合った。しかしその春男さんもすでに亡くなった。清ちゃんは立派な家庭を築き、松坂屋で手芸を教える女性になっていた。その器用さを見ると、両親の前職は洋服の仕立て屋さんであったのかも知れない。
 てっつあんの息子も戦後帰還して出来た子供が、公認会計士の資格を取り大きな屋敷の一部に会計事務所を建て、今は立派な会計士となっている。 
 てっつあん夫婦はもとより、てっつあんの子供の働き者の両親も過去の人となってしまって思い出も遠くなった。
 毎年冬至を迎える頃になると「しろーとこうもりてっつあの屋敷」と知らず知らず口ずさむが、近頃その綿虫もあまり見かけなくなった。

  俳句  収穫の鋏に朝の露光る

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