このところ、私は全く張り合いをなくしている。
というのは「子供の日」ともなれば柏餅を蒸してお重に詰めて娘の家、息子のところと配っていたのに「頼むから持って来ないで」と言われてしまった。
欲しければ要るだけの量を買ったほうが良いと言うことらしい。いつまでもかちかちになって冷凍庫に入っているのだそうな。
それは私の柏の葉に対する思い入れが濃いせいである。
実家の庭には四月になると私の生まれる前からそこにある大きな柏の樹がのこぎり型のぎざぎざ葉っぱで若葉を茂らせる。
節句にはくどで火を焚きせいろで柏餅を蒸したものである。
若芽が出ない内は古葉が散らないので、子孫繁栄の縁起かつぎにもされた。
終戦直後の食糧難の時代は私が良く作っていた。成長期であったのであろう。
結婚してからはよく母が携えて現れた。
弟の許へ嫁いできた義妹は親様は学校の先生らしかったが、爺様は和菓子屋さんだったとかで、見よう見まねなのか手つきも様になっていて、米の粉にお湯を入れて練り掌のひらサイズに平たくのばして、自家用に煮た小豆を丸めて包み柏の葉でくるんで並べて圧力釜で手っ取り早く蒸しあげてあつあつでもてなしてくれるのである。
帰りに沢山の若葉を夫の車で運び、さっと湯通しをして色の変わらない保存を工夫したものである。
最近の核家族家庭では各々が時間の折り合いがつかなくて銘々がそれぞれの時間に食事をすることが多いと聴く。
同じ釜の飯を食んだ仲とか家族の連帯感はどうなるのであろうか。
そうは言っても私自信も一人住まいを良いことに好きなものを好きな時間に頂いている。
百年経てば生活様式も変遷するものとみえる。そこへ行くと自然は人為をほどこさないかぎり悠久なものである。
俳句 百年を経たる樹の葉の柏餅
えごのはな降るほど散りて庭重し