おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

    更 新

2012-06-27 20:53:09 | Weblog

 とんでもない更新をしてしまった。
家え来た客の車に駐車禁止のレッテルを貼られてしまったのである。
 その日エッセー教室でTさんが、M
氏に、
  「あれからパソコンは、どうしたの?あなたのこれだけの文章なら活字で      提出したら立派なものなのに」
 と言われて居るのを聞いて、その日に休んだHさんとが、M氏に何度か個人教授を受けていたことを知ってる私は、はがゆい気がした。帰りに車で送ってくれたので、
 「
ページ設定くらいなら教えてあげるから寄っていかない」
 「今日は遠慮しておくわ」
 「どうして、大納言買ってきたからお抹茶でもたててあげるのに」
 「だったらあそこのコンビニに車置いてくるわ」
 「歩けば遠いからちょっとの間くらい大丈夫でしょうよ」
と招き入れたのである。去年亡くなった岡本氏がどうしてもモンブランの万年筆で自筆でなければ嫌というステータスの持主であった。
 教師であった彼女も若い人が読めない難しい字をよく使って、そう言うことの自信もあったかも知れないし、大体パソコンも種類が様々なのに、私のそれで方法を箇条書きにして持たせても、マニアルの役を果たせたかどうかもあやしい。
 「こんな事でよかったらお暇な時にいつでも来てね」
と連れ立って外え出たら車庫に止めてある息子の車の前にTの字に置いてある彼女の車に駐車違反の黄色いレッテルが貼られているではないか、標示してある時間を見るとたったの九分間である。びっくりしてしまった。
 このような事は二回目で、よりにもよって、前回は三、四年前に彼女とは同じ町内の共通の知人のYさんであった。
 道義的に、私が支払うことにしたが、彼女にして見れば減点になるのはどうしてくれるのと言いたいところであろう。くわばら、くわばら、車に乗れない者は先様のおうせに従うべきである。

  俳句  梅雨晴れて園児出発縄電車
       草刈機親子で響かせ田代守

 

 

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2012-06-17 17:46:45 | Weblog

 一年の内20%くらいは雨が降るのだから車に乗れない者や子供などは随分と傘の恩恵に浴していることになる。
 今の若い世代の人は自転車でも乗り捨てにするくらいであるから、傘などは雨があがると平気で捨てて行く。ガードレールにかけて行ったり、コンビニの傘立てに入れたままにして行ってしまうのである。
 終戦直後、物の少ない時代には、傘も色や柄がフアッションの役をしたり、急に降り出したりした雨に駅へ家族を迎えに行く優しい心情発露の日常的な行為があったりした。
 子供の頃、納戸には不意の客人用に家名入りの番傘がずらりとならんでいたり婦人用に蛇の目傘も混じっていたりしたが、私達こどもは、黒のこうもり傘を使っていた。
 天然呆けの私は一生の内に何本傘をなくして来たか(使い捨てではない)考えると笑えてくる。
 買ったばかりで包装紙にくるまれたままの傘を地下鉄の座席の横にかけたまま忘れて降りたり、丸栄で選んで買ったグリーンの傘をデパートを出て四百メートルも行かない処で所用をしていて人に持って行かれたり、市役所の忘れ物管理課へ何度行ったか知れない  。
 その内若い人を笑えない事には書類の手続が面倒だからとか時間がもったいないからとか言って取りに行かなくなってしまった。五千円もしたものや、なかには梅雨時らしい紫陽花の花柄のブルーのお気に入りもあったりした。
 それはさておき年を経るごとにどうしても忘れられない事がある。
 昭和四拾年頃家が立ち退きになって清洲に移った。夫は車で今までの商売の続きをしていて、子供の転校も四月からにしようと名古屋へ通う子供をバス停まで送って行った。この時張り紙を見てキリンビールへパートに出たが、或る時タイムカードを打って門を出て予期せぬことに驚いた。おりからの雨に小学校二年生の息子が傘を持って迎えにきてくれていたのである。
 毎日一緒に生活している分には一度もそんな事は無かったのに、寒かったのであろう、泥鼻をたらして笑っていた。幼い心根がうれしかった。
 「学校早く終わったのねー」などと話しながらすぐそこの家に帰ったが今にして思えば環境が変わったのは、子供こそであったと痛ましく鮮烈に思いだされる。
 昨日の新聞に依ると突風に強い「耐風傘」が売りに出されるようである。

  俳句  ざり蟹を掬ひつ母を待ちくれぬ

       今朝よりは紫の群七変化

 

 

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 餅 は 餅 屋

2012-06-09 06:44:30 | Weblog

  もう製本なんてこんな事はやめた。
賢い人なら一度で会得するところを私ときたら一年に一度づつ五年間五度も続けたのである。 
 それはパソコン上のブログを本にすることで、最初は教えてくれるОさんとの共同作業のようなことであった。 
 自分の手で本が出来る!
それには原稿、原稿と五日か六日にあげずブログを更新した。七十年も生きてきたので書くことには事かかず面白いように過去やら現在を書き最初の年など誕生日に〆ると六十三編もあった。
 三年程するとОさんの奥様の病状が進みОさんも患われたりしてその技法は私の手に移った。
 文章をメモ帳にコピーしてページ設定をしたA5版のスペースに縦書でフオントも指定して張り付ける。俳画を写真にとりその大きさも自由自在に配することも覚えた。俳句をかならず末尾に入れてフッターヘッダーを配しエプソンの家庭印刷機で片面印刷を根気良くごとんごとんとするのである。
 
去年は二十七冊も作ったが、今年はそれようの紙が手に入らぬこともあって十五冊を完成させた。
 ものには初めと終わりがあってつくづくもう嫌になってしまった。文才 
もなく思慮分別の浅薄なところへ、今の私の生き方は毎年同じことの繰り返しであることに気がついたのである。
 
それにブログの段階で、綿密に辞書で調べて書いてないので校正を要する。ここはプロに依頼してでもクリアしなければならないのに毎年早まってしまって苦労する結果になる。段階的に発生するので修整するのは大変で如何様にも本ともなれば、修整ペンのミスロンとは行かず正確な文字の切り貼りとなる。 
 大体文章を書く者の習性は書いたその日にはもうそれは読みたくも無いのが心情なのであるが、人様に差し上げるものだからと何度も見直してこれで完了と手にとってしげしげと監察すると、あとがきの文中に平成とするところが昭和になっている。点検すると手持ちの全部がそうなっている。気が着いた時に訂正した筈であるが上書保存をしなかったらしい。パソコンは物を言ってはくれない。 
 助かった八冊を進呈する方にそれぞれ封筒に入れながら、もうこんな大変な事はやめようと思えるのは五年経ってもマニアルを作ってそれに従うような手法の進歩が私にはないからである。
 
  俳句 道野辺にあじさい種々に咲きゐたる

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