おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

   猫  三  題

2016-02-23 11:12:52 | Weblog

 二月(にゃん)二十二日(にやん、にゃんの日)
最近だじゃれめいた語呂合わせが流行っている。例えば二十六日は(風呂)の日とか。その都度良く乗せられる私が、にゃん、にゃんの日には少々胸を痛めた。
 思い起こせばその昔実家の居間のガラスの嵌った障子の一番下の隅は猫が出入りできるように紙に糊ずけされていなかった。父は食事時、時々猫に口移しで魚を食べさせていた。その猫であろうか私の嫁ぎ先へ二三日手伝いに来ていた母が「猫が私の帰るのを待っていたように死んだ」と言った。
 次は駅西で商売をしていた頃中村の大秋町でサンドイッチを作ってキヨスクに卸していた高校時代の同級生が、「猫が生まれたのでもらって」と鰹節つきで、つれてきた。白黒の可愛い猫で、隣の鰻屋の主人にかわいがられて、丸々と太った。
 新幹線が出来るので立ち退きになって 、引越しの最後家族四人が車に乗ってさあ出発と言う時ピッチー(猫の名前)が窓に飛びついてきた。店は半分残してあるので、毎日そこへ通ってくるから、猫は置いて行くはずであったが仕方が無い。
 私達はその店へ子供達は学校へ行ってしまって、留守になるせいかある時
から居なくなってしまった。一度土手の草の中で見かけた時は、子猫といっしょに歩いて居た。お腹はたぶたぶのぺしゃんこだったが呼んでもこなかった。
 三番目の猫の話は甥がこれ飼ってと連れて来たペルシャ猫であった 。
息子はやぐら炬燵に寝転んで放り上げたりはげしい遊びをして可愛がっていた。やがて東京の大学へ行ってしまうと、娘も学校の寮にいたので、私達が出勤しようとすると必ず此処が居場所とばかりに下駄箱の上に陣取るのであった。
 
人から猫を飼う時は「死ぬときは外へ行って死んで」と言って飼うのよと教わっていたので、それとない私の呪文が効いたのか、ある日玄関の戸を開けるのとすれ違いに出て行ってそのまま帰って来なかった。二階の物置で子供を生んだり来客を引っかいたりハプニングもあったけれど、今になって思うに動物好きでない私のせいで猫から言わせるとどの猫も幸せではなかったろうと胸が痛む。 

         俳句  もう幾日夜毎せつせつ猫の恋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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五 十 年 目 の 顔

2016-02-12 18:00:37 | Weblog

 忙しかったのか、五年日記の去年の二月二十七日のところに、後で読めば良いとばかりに、小さくたたんだ新聞の切り抜きが貼ってある。
広げて見ると「面影を探して九十年の昭和」と言う見出しで何と懐かしい質屋の舟橋さんと「みのや本店」のうどん屋の白髪のおばあさんが①駅西②として連載されている。
 質屋の男性は、あの人私と同い年だったのか、きれいな奥さんだったからこうして写っている娘さんも綺麗だなあと思う程度だけれど、うどん屋の小母さんには笑ってしまった。
 調達しようとすれば、それぞれの店で揃うのだけど、太閤通りを横切って牧野公設市場へ、娘を乗せた乳母車を押して散歩がてら買い物に行っていた。二人目を宿していてお腹が空くのかこの店の前を素通り出来ずに、暖簾をくぐっては、きしめんや味噌にごみをすすっていた。あの働き者のおばさんは、私より七歳上だったのかと白髪で元気そうな写真に顔はそのままと嬉しくなって笑ってしまった。
 新幹線が出来るので立ち退きにあってそこを離れた。此処での十年が面白かったと息子とよく話し合うが息子はこの人は知らないという。
 私達に店を譲って舅と姑が本店へ引き上げていくまで一緒に住んで居た乳幼児の間のことだから無理も無い。
 あの駅裏も完璧に整備された。今では旅行に行くときの集合場所になってしまった我が家があったところからは、塾や銀行などを眺めて往時の人並みを思い出すに過ぎない。
 それにしても経済効果を期待して駅周辺はまだまだ変わるらしい。

   俳句  断捨離と捨てがたくして毛糸編む
        枯山水万両ばかりがはびこりぬ
   

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金魚のふんか幸せ家族か

2016-02-01 08:51:43 | Weblog

 三十年来続いている「もめん」文集の新年会が例年のように栄の「梅の花」であった。
ご主人を亡くした主宰が百号を以って今年で散会と宣言したものだから、知立や稲沢遠くは東京から全員が参集した。
  この会の発端は西友のカルチャーセンター文章教室の生き残り十四、五人である。
 企業の都合で場所を追われ名東郵便局、千種図書館、と場所移りをしながら講師とともに「もめん」と名付けた冊子を発行していた。講師が引退されると、自分達で文章を持ち寄っていた。講師が亡くなり、やがて栄の能戸教室へ通っていたIさんが学級新聞の経験があり聞風でよければと毎月A4版2枚か3枚に編集して送ってくれるようになった。
 パソコン暦は私と同じ十年くらいであるが、見事なレイアウトのこなしと、空いたヶ所には小さな絵も入れて一流であった。切手を貼った封筒を送っておけば十七、八日には、確実にポストに文集がきていた。
 それを元にして自分の一冊にした人も何人かいる。新年会と年一回の東山植物園の散策と地味な友好も良かったかも。歳を重ねると「蓬莱」がなくなってからの「梅の花」の豆腐会席。地味だがこんな食事もよしと思うようになった。面倒見の良いGさんの提案で食事が終わると主宰にはお礼の意味で胡蝶蘭の進呈をした。
主宰が今後この会をどうしたらいいかと切り出し、何のことは無い、一同が、閉会にするのは惜しいと言い、ならば春夏秋冬四回発行しようと考えていると、結局やめると言った主宰が一番続けたかったのではないだろうか。私の隣に居たMさん等は、はなから終わりになるとは信じて居なかった洋である。
 帰りには例年のように中日ビルでお茶と言うことになったが、今池で下車して千種病院へ入院している妹のところへ寄りたい私はご無礼して帰った。
 結局三十年以上も、つかず離れず付き合っていると、家族みたいなもので、女性の場合とぎれを知らない金魚のふんのようである。

        俳句    それぞれの変遷ありて冬日和

 

 

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