おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

軽 井 沢

2010-08-29 19:19:18 | Weblog

 
 軽井沢からの帰りウイークデーなのに渋滞気味だった。前を皇族の車が走っていたらしい。
 夜のニュースで天皇陛下と皇后様がテニスをされているのが放映されていてなるほどと納得した。事業に成功し軽井沢に千八百坪の会社の寮を持っているS君のところで今年も二泊三日の計画で高校時代の同窓会が開催された。私自身三十代から十回はお世話になっている。
 今回は今迄と比べると随分小人数であったがそれだけにまとまりも良く宴会の後は男女別に大部屋の間仕切りをはずして布団の上で時のたつのも忘れて話し込んだ。
 次の日は旧軽井の店を冷やかしながら散策しレースの店で一様にお土産を買って万平ホテルまで歩いた。その時陛下と皇后様がテニスをされるといわれる静かなコートの横をフェンス越しに眺めて通った。
 
 おいしいランチを頂き コーヒータイムももってから、緑の苔の美しい室生犀星邸に立ち寄った。「ふるさとは遠きにありて想うもの」などと口ずさみながら縁側に腰をかけみんなで写真を撮った。立て看板には「きりふかき しなののくににこほろぎの あそぶお庭を われはつくるも」の短歌が書かれてあった。ワゴン 車で鳩山通りを走ってもらい、今週小沢さん迄いれて民主党の面々が集まった手入れの行き届いた二千坪の邸宅と言う鳩山邸を見に降りた。
 隣の工事中の白い建物は弟さんのだそうである。
 翌朝の散歩は万歩計を手にしたH女史を中心に一軒置いた隣の正田邸の三棟を見たり、めっぽう太い丸太のログハウスの様式を見たりして歩いた。
 
私は軽井沢の邸宅にふさわしい葵や薔薇、青栗やしだ、茸などを携帯電話のカメラにおさめた。
 次の日は碓氷峠のくに境の見晴台に立ち妙義山や南アルプス・北アルプスの連山を眺め詩人タゴールの像の前で初秋の涼やかな風に髪をなびかせた。
 参加した女性の半数は既に夫を亡くしていていつも自然にリーダー役になるIさんの今は書道家である。私が女史と呼ぶHさんは疎開してきて苦労しながらも津田塾をうけて幸せな結婚をされたはずなのに、夫ばかりか娘さんまで亡くされたと聞く。
 それでも戦争で修学旅行もなかった私達世代の者は「夫がこうなるようにして逝ってくれたのだとおもいますわ」とみんな謙虚である。   

   俳句 秋立ちぬ碓氷峠の国
      姨捨の段々畑秋暑し     
          中央道高砂百合の増えにけり

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 盆 に 想 う

2010-08-18 16:02:28 | Weblog

 私の子供のころ祖母が亡くなって戦争が、激しくなると、それまでの盆供養の胡瓜の馬やとうもろこしのひげの尻尾をつけた牛などのお供え物をしなくなった。
 母が亡くなって、それまでの小さい黒塗りの膳に従兄弟煮などのお供え物をしていたのはどうなっただろうか。
 13日息子と墓に霊迎えに行きその足で、実家のお墓迄行った。涼やかな桔梗の供華で祀られている墓群へ線香をたむけ仏間でお茶を頂き、居合わせた六名で生身霊よろしく満員の鰻屋で会食をして帰った。
 15日我が家も例年通りお水と佛飯と果物のお供えで夫の姉と甥、娘夫婦に孫娘一人私と息子の七人で、追善供養のお経を上げてもらってきてから家でお寿司の会食をした。
 年々歳々今生きている者の利便性を優先して催事は希薄になって行く。
 今日は65回目の終戦記念日でもあるので、夫の姉に戦争の時の事を詳しく聞こうと娘や孫が期待していたけれど92歳去年と比べるとずいぶんと耳が遠くなって居られて、意思の疎通が難儀で私が今までに聞いて知っていることの又聞きであった。
 2人目のお産で3歳の長女を連れて疎開しているところえ私の夫が用があって出向くとその明美がついて行くと言って聞かず、子供好きの夫が川の渡しで機銃掃射に遭い水にもぐったりしてまで連れてくると一週間のうちに名古屋空襲で焼かれて死んでしまった。
 瓦町方面へ負ぶって逃げたのは叔母の双子の未婚の妹であった。
「じゃその時生まれた下の子は」と娘が聞くと[
4ヶ月だったけど食べ物がなくてねー育たなかった]と言われた。 
 思いがけず娘が疎開を知らないようなので夫の妹の君子叔母様が学校から集団で田舎のお寺へ
学童疎開をしていて帰りたくて泣いてばかり居たと聞いた事があるよと話す。
 お母さんの田舎はどうだったのと聞くので、都会から家中で逃げて来て納屋や離れを借りて暮らしてなさったよと話した。
 自分が余りに如実に知っていたので子育て時代に話題にしなかったらしい。
 次の日洗って置いたその時遣った割り箸を、私の新案特許の送り火とばかり、背後霊に礼を言いながら焚いて霊を送る。
 おかげで今年も無事終えましたと、やおらテレビをつけると「15歳の志願兵」を放映していた。
 妹に電話をかけて「貴女の主人もモデル校の愛知一中だったからもう5歳上だったら渦中の人だったかもね」と言うと「私そう言う事には関心がないから」とのことであった。
 あの頃のアプレゲール派が今日社会を作り出している。核家族、核家族で高度経済社会を謳い文句に周りを眺める暇もなく驀進して来た罰で私も含めてお一人様の時代に突入したのである。
 百歳以上の生存不明者が出るのも、むべなるかなである。
  
   俳句 生身霊ダモイと帰郷比べ読む      
      湯上りに母と眺めし遠花火

 

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どちらもどちら

2010-08-10 10:05:45 | Weblog

従兄弟の不二男さんが九十歳で亡くなった。
私とは歳がひと回り以上違うので余り話した事はないが、その奥さんとは一時大変仲が良くて気心は知れた間柄だと思っている。
 献体は名大で、献眼は名私大へと、その間隙を縫って密葬をされたと彼の本家の従兄弟から聞いたので、ふた七日が過ぎたところで、お悔やみの電話を入れた。
 明後日涼しいうちに行くからと約束をした。
 前の晩か当日確認電話をしてから行くべきだったのに、要らぬ心配をかけてもと思い、三十年くらい前に行ったことのある家へひたすら出かけて行った。
 一階には次男家族が住み老夫婦は二階に住んでいた。
 門には今風のサイケデリックな表札が架かっていてその横のインターホンを二度押しても応答なし、引き戸が空くので玄関まで行ってどんどん戸をたたいたが、反応がない。
 たいていの人はここでどこかにインターホンがないかと落ち着いて探すのだろうが、とりつくしまがないなあと外階段を上ってみる。
 途中には杖も置いてあるし、戸も開くので何度も呼ばわってみるが留守らしい。
 名刺の裏に「出直します」とメモしてドアに挿み、通りに出て二、三十メートル帰りかけたが、もすこし待ってみよう、そこいらまで出かけただけかも知れないと引き返した。
 戸が開いているので「ごめんなさい」と上って行って仏間に入り、部屋の窓も開いているし座布団の横には今朝の新聞も置いてある。私が来るのを想定してこうしてあるのかと扇風機を入れて、ご仏前にお供えをしてにこやかな良い顔の写真に挨拶をした。宗派はちがうけれども、ここも「南無妙法蓮華経」だからと四十分間唱題をした。
 西の本階段から呼べば下に若
奥さんが居られたそうであるがそこまで見てみることなく桜山の地下鉄まで歩き赤池周りで帰って来た。
 あとで「今日だったかねー明日お寺さんへ行かなければならないので美容院え行っていた。新聞でも読んで寝転がっていてもらえば良かった」と八十五歳の彼女は積もる話が出来なかったと悔しがっていた。
 夕方娘から「熱中症にかかってない?
」と電話がかかってきたので、そのことを言うと「どちらもどちらだねー」と驚いて感心していた。泥棒のような行動だったと反省することしきりである。
  
   俳句 蒸す朝にぽかりぽかりと芙蓉花 
      炎中や献体告げて不二男逝く

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