おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

行く先先の秋惜しむ

2007-11-30 00:02:15 | Weblog

 ×月×日 忘れないように用件をメモして郵便局へ自転車で出かけた。用を済まして表へ出ると、シルバーセンターからの派遣らしき男性が、何人かでパチンパチンと枝払いをしている「はなみずきですか」と聞くと「南京はぜ」と教えてくれ、実をつけた枝を沢山、自転車の前籠に入れてくれた。白い花瓶に挿すと紅葉や青のグラデーションが美しい。

 ×月×日 句会の吟行で二十七名が役所のバスで知多の内海にある杉本健吉美術館へ行った。池と錦秋の楓を従えて立つ瀟洒な建物であった。そこには画伯七十年の歴史が展示されて、市電のマークは特に懐かしく、梵字の曼荼羅や、書かれた千体もの仏像は緻密な筆致であった。生前夫がグリーンの表紙の健吉の画集を紐といていたのに、覗いてやらなかったことに胸をいためる

 ×月×日 中部大学第一高校講座「パソコンで年賀状を作ろう」(定員十二名)に応募した。そうそうたる七人の講師陣、土曜日なのに無料講習ご苦労様である。「名前を付けて保存」でその日は修了。ロータリーでバスを待つ間、視覚いっぱいに田舎の秋を見回す。道路をへだてた向こうの家は、昔良く見かけた三角屋根の間の壁に大きく水と書かれた懐かしい家である。ひつじ田は、二毛作ほど稲が伸びて、穂さへ出ている。そこへ高い木のピラカンサから雀の群れが、ぱっと石礫のように舞降りた。ここは盆地で、雑木山の紅葉が絵の具を、引き寄せたように取り巻いている。そうこうしていると戸飼の鶏が何度も大きな声で鳴くのが聞こえて、声に出して笑ってしまった。

 ×月×日 誘ってくれる人があって、池下の古川美術館へ行った。道中の銀杏の黄落も今日を限りと輝き、大観、玉堂、龍子の三巨匠のそれは流石の格式であった。私は玉堂が好きである。見終わって為三郎記念館でお茶を頂いた。深庇に八潮のもみじの紅葉も素適で庭の散策もした。今年は遠出をせずに秋の風情を満喫した。

 もうすぐ吹く木枯らしも受けて立てるというものだ。

  俳句 * 五輪塔羊歯に埋もれ傾ける 

     * 蹲に添ふ石蕗の花時惜しむ

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伯父さん

2007-11-22 19:05:57 | Weblog

 ベルギーの伯父さん大好き、二人の女の孫は小さい時いつもそう言っていた。

 もう九年も前になるが、娘婿の兄であるМさんの告別式に、私達夫婦も、東京の港区まで、泊りがけで行った。

 それより更に九年前、1989年ベルリンの壁が崩壊するとき特派員だった此のMさんの手記を中日新聞で、どきどきしながら読んだものである。

 日本へ帰ることが決まってから、航空券が送られてきたからと、娘達四人家族が一週間も世話になりフランスやデンパークなどあちこち観て回ってきた。

 帰国したMさんはワイツゼッカー氏が来日された折は伊勢神宮など、終始同行した。氏が愛知県美術館での講演を終えて帰国される時、書家であるお母さんの筆の掛け軸をお土産に差し出すと、Mの実家で泊まりたかったと、おっしゃつたそうである。

 その年の夏の終わり、ハワイ研修から帰る子を迎えに娘一家は成田空港まで遠距離運転で出かけ、帰りに東京の伯父さん家に寄って六本木を観たいと言ったら、あちこち連れて行ってくれた、優しかった伯父さん。

 それが最後であった。秋初め虚血性心不全で突然亡くなってしまった。奥さん以外は誰も間に合はなかった。

 大勢に惜しまれて旅立たれた社葬では、同僚の方が「かって先輩が亡くなられた時、貴君と何故そんなに死に急ぐのかと話合ったものですが、その先輩は四十九歳、貴君は四十七歳とそれより早く逝ってしまって」と弔辞をのべられた。

 子供はない。中学のセーラー服の孫二人は、瞼を赤く腫らしていた。

(泣き濡れて棺に華を添えるのみ優しさ置きて伯父は逝きけり)                   

 中学生だった孫は、来年は二人とも社会人である。

 香典を海外に学校を建てる事に寄付したそうである。Mさんの実家の仏壇には木鐸の死を悼む詩がお母様の書で供えられている。

 俳句 * 秋深きあちらに逝きし人のこと 

    * 単線の電車消え去り秋深む

 

 

 

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友の会

2007-11-14 11:51:41 | Weblog

 片倉友の会のOB会に所属している者は、800名位である。十一月に東海地区の定時総会が琵琶湖グランドホテルであった。出席者は38名でおきまりの式次第に依り、社長挨拶、決算、予算、会則変更、閉会で、後は楽しい懇親会となった。

 九月頃予期せぬ写真集が宅急便で届いた。大変重厚なものなので計量すると、1,4キロもありカラー写真だけでも大小九十五枚も収録されている。それは、社長の最たる快挙で、市に寄贈した、富岡製糸所の建物の全容であった。

 盃の間に間にその話になり[昨年は、国の重要文化財に、今年の一月には、世界遺産暫定リストに追加された。その工場の歴史的価値や文化的価値を改めて見直すと共に四季折々の表情を通して明治5年から現在に至る迄の歴史を感じてもらえたら]と言うことであった。

 百十五年も、同一製品を作り続け諸々の役割を果たしたこの産業遺産は今後どのような新しい役割を持つのか、15,608坪ともなると、増してこの美しい幕末の幾つかの建物の維持管理は大変なことであろう。

 この工場だけは、他に売るに忍びなかったという社長の編集の写真であろう。その分類には、「曙光-近代への出発、」「黎明-世界を結ぶ糸、」「光源-器械製糸の範として、」「光芒-ときの流れに、」「残照-未来への遺構、」などのタイトルで詩が書かれていて芸術的で、一個の人格にさへ昇華している。宴会は誰言うとなく社歌で終わり、スナックの、からおけへ人は流れた。

 女性陣は来年五六月に、富岡工場を見に行こうと内諾を取り合った。次の日は気分一新、大原三千院へ観光に行き京都駅で、流れ解散をした。

 俳句 * 三千院坂の嶮しき鵙高音  

    * 竹幹の風しょうしょうと暮の秋

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木の葉散る

2007-11-06 18:58:53 | Weblog

 私より一回り近く若い従妹が亡くなった。癌であったらしい。

 靖子ちゃんの名前の由来は、お父さんが戦争に行って、父親の顔を知らないで生まれ靖国神社の靖をとったんだったと記憶している。夫は戦死、家は空襲で焼かれた叔母は、働いて一人で三人の子供を育て上げた。

 一番下のこの子は、バイトで巫女さんに行っていた先で、そこの宮司さんの次男に見初められて、結婚し、高校の先生であった夫との間の一人娘には、日本舞踊の名取の免許を取らせたり、教育大を出して先生にさせたりと家族にせいいっぱいつくしてきた。その娘がお寺さんに嫁ぎ可愛い孫が出来たところだった。

 九年前に叔母の声かけで八人でハワイに行った。靖子ちゃん家はトリオの洋服でのパーテイだった。ワイキキビーチで泳いだ笑顔や、カヌーでの川遊びの時、どじな私が水におっこちたりして笑われたり、オプションのナデアクルーズでの乾杯やら、若いだけにいろいろと気を使ってくれた。先生の英語のお世話にもなった。リムジンでアラモアナへ出かけたりしたわねー。

 従姉妹会で、三重の長島で泊まった時も、一番幸せそうだったのに。早すぎる終着駅だった。

 先生が叔母の一生を「小浜は、この子を抱いて」というタイトルで小説にされた時親孝行が出来たかなと言っていた。

 その叔母は九十歳で健在である。

  俳句* 名披露目の手拭撒きて舞い扇 

    * 注連飾袴の巫女も紅指して

    * 蓑虫の凍土の父にまみへしや

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