おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

映画「三丁目の夕日」

2012-02-25 15:05:33 | Weblog

 娘が車に乗せていってくれて、三好のモビックスえALWAYS「三丁目の夕日」のシリーズ3を観に行った。
 シニア料金は1,000円で普通の人は1,八〇〇円である。中は平日のせいかがらがらであった。最近テレビで放映された(1)と(2)を観た私が(3)もあるならと早く観たくて出かけたのである。
 あらすじは昭和三九年、日本中が高度経済成長と東京オリンピックに湧く中、夕日町三丁目の住民達はいつもと変わらず和気あいあいと暮らしていた情景を、山崎貴監督が当時の下町の現実的情景を再現し人々の記憶や、心に存在しているイメージの情景もともに再現してくれたのである。
 当時の東京の港区愛宕町界隈を想定して其処に住む人々の暖かな交流が描かれ、淳之介が茶川と二人三脚で小説家えと、鈴木オートはカラーテレビを購入して街中の人を家に上げて見せたり、見習いの六ちゃんが煙草やの小母さんや、淳之介の奥さんの協力で恋を実らせて結婚したりと東京オリンピック頃の集大成である。
 東京タワーが夕日に浮かんでいる三丁目からの風景が度々映されている。
 私達が住んだ名古屋の下町も時代背景が一緒なら同じようなものであった。
名古屋のテレビ塔は昭和二九年に出来て、私達の始めてのデートはテレビ塔であった。
 三一年に結婚したが、親戚が電気やだったのと夫の両親と同居だったのとで最初から冷蔵庫(ただし氷で冷やす)も丸型の洗濯機もテレビもあった。
 三種の神器と言われるようになったのは、皇室の結婚式頃からである。
 商売を始めての最初の車はミゼットであった。子供が成長して行く時この映画の一場面のように二人の子供も、フラフープを盛んに回して熱中していた。そのお友達の清美ちゃんも乗せて犬山遊園へ行った時は、いつ覚えたのか、往復とも「白い野ばらを捧げる君に」等と舟木一夫の歌を歌
いっぱなしであった。
 新幹線の出来る時、法面で遊んでいる息子を危険だからと巡査が家へ連れて来たこともあった。
 そんなこんなで結局私の懐古趣味に付き合せた心豊かな映画鑑賞であった。感謝!
  
   
俳句  春雨にタクシー全部出払いぬ 

        鴨引きて残りし鳥の寂し気に

 

 

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 老 前 整 理

2012-02-17 17:50:40 | Weblog

 
 「断捨離のすすめ」と言う本が売れているらしい。
エッセー教室でも「老前整理」と言うタイトルの宿題をもらった。これらは楽天家の私にとっては、非常に重い言葉である。
 身の回りのものを意識し自分との関係を問い正さなければならないからである。
 はてと、私は考える。家の概念は精神面を除けば衣食住全般が私の財産で私を成り立たせる根源的なものと思っていた。
 当然それらの前でわたしは従者であった。心地良い居住空間であった。
 しかしよくよく考えてみると私が財産と思うものは、人からみればがらくたであろう。
 わびしい行為ではあるが三月、四月と暖かくなったら少しづつ減らす努力をしようと決心する。
 先ず「衣」と来た日には今迄取捨選択して処分することが出来ずに、衣替えの季節が来る度に防虫剤を入れ替えて着もしないものをストックしている。夫の商人コートやオーバーもやっとエコドームへ出した処である。
 「食」食器類も多すぎる。遠い過去になるけれど夫はかんしゃくを起こすと、流しに洗って伏せてある食器をざるごとがちゃんと割っては二、三日すると瀬戸や多治見へ行ってまとめ買いをして段ボールで運んで来たし、私も頒布会に契約して、月に一回来るのを楽しみにしていた。
 庭の倉庫にあるそれらのものを、取りあえず始末しよう。東北の津波の被災者は入用かも知れないとは思うけれど。
 不意の来客用の抹茶茶椀だけでも六個も食器棚を占拠している。
 「住」布団も干したり入れたりしていても泊り客がない。慶事弔事の折の引き出物のタオルや毛布も箱のまま積んである。せいぜい環境の整理をしよう。
 桐の箪笥を三回も洗濯にだしたように、ここは一つ自分が主になって独り相撲をせねばなるまい。
 こんな事を考え始めると夜も眠れずに気が変になりそうであるが、これもエッセー教室の「老前整理」という宿題のおかげである。
   

    俳句 直系の嫁を貰ひぬ春一番

                  春寒や茶店に話咲かせをり

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  送 る

2012-02-10 19:36:21 | Weblog

 節分も過ぎたと言うのに今年はいつまでも寒い。
そんな二月六日の夜半、娘の舅の命の灯は静かに消えた。
 医者からは年内が危ないと言われた事もあったが姑の手厚い介護で一ヶ月以上も持ちこたえられた。九十一歳であった。
 七日の通夜と八日の葬儀とは、親族だけの温かい家族葬であった。
 葬斎場の受付に「香典ご辞退します」とあったので、当家としては供花の一対とさぶし見舞いの甘いものを、お供えした。
 ご長男の新聞社在職中の葬儀は社葬の大層立派なもので、しかるべきところへ香典を全部寄付されたものであった。その未亡人は東京から来ておられた。
 そのような逆運の憂き目を見られて二十年程、これであの世で息子とまみえることが出来るといいが・・
 立派な祭壇には銀婚式の写真からという、バックを水色にした凛々しい顔が飾られていて僧侶は真宗大谷派の親戚のお寺さんが呼んであった。
 焼香を済ませ、棺の慈父を皆、涙に潤んだ瞳で華いっぱいに埋め、尽きせぬお別れをしてから、霊柩車に喪主の姑と次男(娘の夫)が護衛に乗った。
 私達は葬議場のバスで行って八事の火葬が済むのを待って皆でお骨を拾った。
 初七日法要は朝の僧侶の息子さんが来てお経を上げられ、終わってから「何年経つても、子供のころ一緒に遊んだ面影は忘れないものですねー」と身内の誰彼に言葉をかけて引揚げられた。
 姑は順序として私が送らねばと入院したり、抗癌剤をうったり、又入院したりして自分の癌を克服した壮絶な体験をされてから、まだ日が浅い。
 気を張って居られるのであろう、「此処の中では私が最高齢ね。次に行くのは私だから、よろしく」などと気丈に言いながら初七日のお時を振舞っておられた。
 仲が良かっただけにげっそり気落ちされなければ良いが、生き甲斐の書道塾に精を出してくださいと祈るばかりである。

  俳句  葬の列梅畑に舞ふ春の雪

 

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女 正 月

2012-02-03 17:34:47 | Weblog

   今年も例年のように「もめん」の文集仲間が栄の「梅の華」で、女正月よろしく集まった。
 久しぶりに会ったので乾杯も華やいで楽しげである。
 のっけにYさんが、「息子の嫁が入賞した藤が丘のコーヒーショップ界隈とかいう短文を、三月二十日の午前七時四十分から八時までに、NHKラジオの第一放送で朗読されるから聞いてやってください」と発表した。
 「類は類を呼ぶのねー。そりゃ喧嘩せずに行けるから良いわねー」などとYさんも小またの切れ上がった上手な文章を書く人なので、皆で冷やかしたりした。
 お喋りしながら部屋出しの料理を堪能していても、十人の真ん中の席だけがいつまで経っても埋まらない。
 「Tさん絶対来るって、行く行くと行ってたもの」などと何度Tさんの名前が皆の口に上ったか知れない。
 「もう仕方がない、忘れてるんだわ、皆で一品ずつ召し上がって」と主催のIさんが言い、そこを出て中日ビルのサンモリッツで、テータイムをもっている所へあたふたと駆け込んできた彼女は忘れていたと悔やむ。
 以前私も昼神温泉での同期会に次の日と覚え間違いをしていて、着いた時にはもう宴会は終わっていて、次の日一日行動を共にしていても冴えない気分だった事を思い出した。
 電話番号が判らないなどと言ってないで、番号案内へ訪ねてでも架けてあげるべきであった。
 一番年齢の若い彼女はまだ男性にもてる話を漫談風にやって、皆を楽しませて呉れただろうのに。さんざこっぴどく叩かれたあげく、ご馳走も頂かずにお詫びと言って十人分のお茶代を支払った彼女の空しさがわかる気がして、切なかった。
 殆どが携帯電話を持っているのに猫に小判であった。


俳句  北側は今宵も雪の凍るらし
     遊耕地蔽いつくせり雪野原
     おしゃれしていざ買いに行く福袋

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