おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

冷 蔵 庫 異 変

2014-07-30 16:40:15 | Weblog

 七月二六日の土曜日この夏一番の暑さを報じるような日の朝、つめたい物を朝食のお盆に乗せようと冷蔵庫の氷のトレーに手を入れると水である。
 あれっと製氷機を見ても凍っていない。外気の余りに暑い時にそう言うことがままあるらしいけど(本当かしら)冷蔵庫がエンストを起こしたのである。
 電気屋の妹の所で買ったので、電話を入れると義弟がメーカーへ連絡をしてくれた。
 メーカーから電話で月曜日にしか行けないと言って来たので、コンビニへ氷を買いに走りアイスボックスに生物を詰め込んだり庫内の掃除をしたりとおおわらわであった。
 メーカーの女性が言うのには保障期間が過ぎてるから、お金がけっこうかかるというし、電気屋の義弟はコンプレッサーまで交換するくらいなら新しく買った方が良いよと言う。
 さあ取り説はあるけど、保証書がない。確か屋根屋さんも来て居た時だったからと、古い日記を見てみると十一月の六日が満五年なのであった。
 月曜日キッチンを汚したくないので、朝は茶店でモーニング、昼は一日早いうな丼を「すきや」で食べた。
 午前中の筈が午後の二時になり、それが夕方になりで、業者が現れ一時間半から二時間くらいかかって修理してくれた。
 やはりコンプレッサーを交換したが、購入日が判っていたのであろう。料金のことは何も言はずに書類に捺印しただけで済み「近日中にこのハガキのアンケートを記入して投函して」とのことであった。
 女店員の言うように、お金を用意していたのが只であったので、気を良くしてチップをはずんでやった。
 ここのところお隣さんの宇都宮への引越しやら、孫の新居への引越しやらいろいろあって私は何も出来ずに気を遣うだけであったが、ここで無罪放免となり、二十九日は薬をもらいに医者めぐりをした。
 三十一日は、話し上手な友達と、昔この辺にはそこしかなくて良く行った平針健康センターヘ暑気払いに行く約束である。

     俳句  暑気払い梅酒の瓶から梅を出す
          折節に合歓の花見てつつましく  

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豪華ミステリー旅行

2014-07-20 08:31:44 | Weblog

 クラブツーリズムの旅行バスに初めて長久手から乗った。そこから乗ったのは七人だけであったが、旅立ちとしては、近くて楽である
 和歌山のサービスエリアで休憩したので、今回はいつもと違う方角なのを喜んだ。
 熊野であろう山の多い自動車道をひた走って、バスの中で昼食をとり有田や田辺の標識を尻目にして湯浅町で降り、国の重要建造物保存地区の街並みを散策した。
 由緒ある小物を額に入れて家の横や板張りの壁に貼り付けてあるのである。簪や石や人形や,煙管などでよく泥棒が持って行かないことである。
 その町の湯浅醤油を見学し大きな樽を見て作業行程の説明を聞いた。見終わって醤油のジェラードを買ったりした。
 次は東洋のエーゲ海といわれる白崎海洋公園を散策した。
 へーと驚く石灰岩で出来た山並みである。どうしてそのような巨大岩が出来たのかは説明が無かったが展望台から見る海の景色はやはり白い岩を抱いて入り江の水は透き通って青い。
 日傘を挿して歩いていても汗が吹き出るのでカフェで冷たいものをのんで、もう四時半には宿泊先の白崎南部ロイヤルホテルに着いた。
 早々に名物風呂の備長炭黒湯温泉にゆっくりつかった。七時からは料理長特選の五十種類以上のバイキングの夕食となった。
 いつも私はラッキーなことに、旅は道ずれの友達が出来るのであるが、今回はまるきり一人旅みたいなもので、もう一人のお一人様は声掛けを心良しと思わない人のようで取り付く島もない。
 仲間同士で来てお皿や、ビールをとっかえ引き換え騒いでいるメンバーを横目で見ながら時間を持て余した。
 35平米もある部屋で眠れぬ夜を過ごし、朝五時半から地下の温泉に入った。
 二日目は道成寺の参拝で千手観音やら宮古姫など二〇数体の仏のとりまく中で由来を聞いたり次の仏間では安珍清姫の絵解き説法を面白く演出してくれた。
 六十段の石段を下りて参道の食堂街で早いお昼を食べて大漁土産センターで鮪の解体ショーを見たり、多くの出店を周ったりしたが、私はここの、とろ鮪や、さざえのつぼ焼きで昼食をしたほうが良かった。
 広いテーブル席は閑散としていた。
 後は国道を走ったのか最近出来たあべのハルカスを右に見ながら、大阪城へつき今までは余りにひろい城郭なので何度大阪へきてもカットカットですませていた天守閣へ今回は登ることが出来た。
 駐車場から片道十五分を歩くのは暑くて大変なので入場しない方も半数だったが私はエレベーターで八階まで上がり、シアターや秀吉の顔の絵をみたり、金シャチが目の前の屋根にも光っているのを眺めたり向こうの造幣局を確かめたりと充分満足をした。
 人に迷惑をかけないようについて行くのが骨が折れたが、約束の時間通り十九時半には長久手に着いた。
 駐輪場に止めておいた自転車の前と後ろに土産物を乗せて今更雨の降りそうな夕暮れをふらふらになって帰宅した。
 まあまあ良い旅であった。

   俳句  梅雨晴れ間最後に配る道程表

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海部さんの回想録

2014-07-11 06:25:26 | Weblog

 中日新聞に海部俊樹の回想録が第二章として載りだした。
首相になられた頃のいきさつ等はさて置き、今になって、さっちゃんの御主人の生い立ちに関心を持って読んでいる。題字も本人のものである。
 1931年名古屋の東区東桜で生まれている。
 松坂屋の北側の中村写真館の息子で六人きょうだいの二番目で長男であった。愛知一中に不合格で東海中学へ行った。
 戦争中1945年、焼夷弾が天井を突き破って家の中にドーンと落ちてきた。一歩間違えば直撃だった。
 その十二歳頃は戦況悪化によって勉強どころではなく、学徒動員で大幸町の三菱重工で航空機のエンジン部品造りに明け暮れた。
 空襲で家が焼けると稲沢に疎開して清洲の三菱で同じエンジン造りをやらされた。
 名古屋市内を空爆するB29の八機の写真も掲載されている。
 空襲警報のたびに防空壕へ入ったり出たりで逃げるばかりの、無力な地上の暮らしが嫌になって陸軍少年飛行兵を志願して合格し十月に入校がきまって居たが八月に日本は敗戦した。
 戦地に行くことは無かったけれど戦争の体験は「二度と繰り返してはならない」と心から思ったとある。
 昭和以降東海三県で唯一の総理大臣(短かったけれど)愛知九区などで当選十六回を果たした国会議員であった。
 「そんなことは知りきっている」と言うであろう名古屋生まれの夫や、その姉も亡くなり今や戦争を知らない安部首相の下で集団的自衛権行使の為の関連法案が成立しようとしている。
 九条の会に入っていた私の同級生の男性も亡くなった。
 又この二三日前には岐阜市の強制疎開の俯瞰撮影の写真(炎上したが)が掲載されていたので感慨深く眺めた。
 高校卒業前に化学の選択科目が一緒で知り合ったさっちゃんと校内の井戸を間にして話しあった風景を思い出した。
 東京へ出て行って国会の秘書となるだけの大きい抱負を持っていた器の今の海部夫人であった。
 こんな事を言うのも井戸端会議の一端かも知れない。

  俳句  茗荷の芽摘みて料理に花を添ふ

       天道虫幼児のポッヶ臭ひける   

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七  月

2014-07-02 05:29:02 | Weblog

 七月一日の朝九時、市の交流館の十月の句会の場所取りの競争電話を入れて先ずは希望しているD室を確保した。毎月第一の火曜日の午後の教室である。
 が、この七月の今日は一寸異例でせっかく確保してある教室をキャンセルして御食事処「やじろべえ」で、昨日撤去した展示会の打ち上げを兼ねて句座を開いた。
 先生を中心に楽しく事が運びNさんが、いつになく五句とも点が入り而もトータル最高の2
2点であった。彼女はこの日の為に百句を詠んで選んで来たと言う努力家である。
 展示会は芳名帖をつらつら眺めるに実に沢山の方々が御出でくださっていて中には句まで頂戴している人もある。来年の励みになること必定である。
やがて、句座が終わればこれらをさらりと忘れて来月までさようならと言うところが、この句座の良い所で私も久しぶりで解放された気分である。
 明日二日は溜まっている身辺整理でユウチョの用件三件、銀行の打ち込み一件と松坂屋へ行ってお中元の発送と南館の光風会百回展「洋画家たちの青春」を観て来る。
 今までの「ながら族」を廃止して一日一件を心がけて いるのに今回は此の有様である。でも中にはミステリー旅行のお金の振込みの用件も入っているので先が楽しみである。

  俳句  灼けまじと白手袋の面映ゆき 
       別れ来て糸蜻蛉とはなほ淋し
       めまとひを払いてのこの進まざり

 

 

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