おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

  登 山

2010-07-31 08:35:35 | Weblog

 折しも夏山のシーズンである。
 又昔の事になるが、夏休みになると「高校生活も終わりになるから伊吹山へ登らないか」と言う嬉しい誘いがかかってきた。
 私達三羽烏は二つ返事で参加することにした。
 
今から思うとなんで山へスカートなのと笑えるけど、すみれさんが白のギャバジンのフレヤースカートの裾をまつり絎けするのを、はらはらして覗き見しながら待って集合時間きりきりに間に合った。
 六十年も前のことなので細かいことは覚えていないが、十二人ほどが東海道線で柏原まで行ったような記憶である。
 
当時の事とてそこまでも結構時間がかかった。
 夜のとばりが下りて長い長い行列の中に入り足元に気をくばりながら登りはじめた。行く手をみても後続を見ても懐中電灯の明りが長蛇の列さながらである。
 覚悟はしていたけれどつらく苦しい三時間ほどを登ると今度は胸突き八丁と言う嶮しさが待っていた。
 優しい男性の誰か彼かが女性の荷物を持ったりしてくれてやっとそこを越すと薄明かりにお花畑がみえてきた。
 ここ伊吹山は滋賀県と岐阜県の境にある養老山系の千三百余メートルの山である。初めて見る高山植物の花に埋もれてしばしの休憩をする。
 おにぎりとお茶だけで誰のリュックからもお菓子も飴も出てこない戦後間もない時代であった。
 やがて頂上に立ち日本武尊の像も寒いのと人の肩でじっくり拝むこともなく日の出を待った。
 ほどなく開け始めた対面の山々の大パノラマの雄大な眺めは名状しがたい初体験であった。
 写真一枚もないけれど、茫漠とした青春の思い出である。
 そのことがしばらくはその高校の密かな伝統になったかして、妹達は立山の縦走までしている。
 時代が変わり吾娘がそんな年齢になると、伊吹山へドライブに行くと言うので吃驚したが、わたしとて乗鞍の千畳敷き迄九十九折を車で連れて行ってもらったりして、完登したのは、ここ伊吹山だけである。

 俳句 ペアになり胸突き八丁山登り
    金魚田のプリント模様水揺るる 
    日焼けすも老いの一徹二輪踏む

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 夏 の 日

2010-07-21 17:06:33 | Weblog

 毎週月水金とゲートボールの練習に朝八時半に自転車で家を出る。片道二十五分のサイクリングである。
 雨で一回休みだったので走っていても新鮮な感じがする。
を見ると、梅雨で水嵩の増えた広い弁天池に小さな一羽の鳥が泳いでいる。鴉が鉄柵に止ってそれを見ている。
 しばらく行くと田園地帯に入る。ついこの間まで植田一枚ずつ増えると言う景観であったのに今はもう五十糎以上も伸びて株もしっかりしてきた青田である。
 ゴルフの練習場の駐車場を斜めにつっきり、いつ経営者に叱られるかと戦々恐々の一年が経つたが今日逢ってしまった。
 こんな横着をするのも四十代の頃近所の奥さん連中と誘い合わせて、夜の球拾いに此処へ来ていたからである。
 毎日仕事が終わると茶菓をいただき雑談をしたのが懐かしい。婿さんの運転で伊豆や高岡へ十余名の旅行にも行った。
 その後打放しの夥しい球は処置が機械化されて終わりになった。
 お互い連れ合いをなくしたことを話し合って往時を偲びながら立ち話をした。
 自転車は住宅団地に入り松葉ぼたんや鳳仙花百日草やおくらの黄色い花が朝日に映えて輝き美しい。
 最後に水引草の生えている林を回るとそこが保育園と隣り合せのゲートボール場である。
 園児は今日初めて北と南にしつらえられたビニールプールに寿司詰めにされて嬉しい歓声がけたたましい。
 またある日には、フエンス越しにこちらに向かって「がんばって!」と叫んでいたことや園が不特定多数に出させる暑中見舞の葉書が家に来ていたことを思い出して、今年こそはパソコンで可愛い絵を描いて返事を出そうなどと思う。
 練習を始めると今年一番の暑さに、今日か明日には梅雨が明けるだろうと話合った。(二〇一〇・七・一六)
  
   俳句 門球の声達者なり炎天下
      疑似餌の子隣の蚯蚓覗き見る

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大連紀行

2010-07-12 16:04:04 | Weblog

 日進市文化協会主催の第十三回文化交流会・中国東北部大連を訪ねる三泊四日の旅行に参加した。
 私は協会員ではないが一般応募で始めてである。中部国際空港からは二時間半で大連空港についた。
 現地のバス二台に分乗、日本語の堪能な金さんという若い男性の説明で車窓から大発展中の市内観光をした。観光を終えゾンジャンホテル(大連中山大酒店)に着く。三十八階で東北料理の歓迎夕食会をすませて、同じ条件で参加したKさんと同室で清潔な部屋で最初の夜を迎える。

 今日のような良い天気はめずらしいと金さんが言っていたが、あとの三日間もかんかん照りで、大陸性なのか湿度は無くからーっとしていた。
 翌日はこれが目的の協会行事を十二時過ぎまで行った。お互いのトップが熱烈歓迎の挨拶を交わし、
続いては雑技や歌、似顔絵、書、刺繍などの催しがあり、これに応えてお抹茶を呈した後、浴衣の全員で日進音頭を会場いっぱい輪になって踊った。
 その浴衣のまましばらく街を歩く。列車のアジア号を見学した。ロシア人の街では、ロシア人形を買った。着替えて夕食をすませ、金さんが夜の観光に連れて行ってくれたので、人民広場の噴水の写真を撮ったり旧満鉄の建物を写したりした。 満鉄は伯父一家が引き揚げまでいたところなので、感慨はひとしおのものがあった。
 次の日は私にとってもっとも関心の深かった日程であった。四、五年前までは開放されてなかった旅順の視察である。 高所から遥か望んだ九十メートル巾の旅順口は不凍湖を抱き穏やかに凪でいた。かってはここにたくさんの軍艦が浮かんでいたのであろう。
 日露戦争は勝ち戦だつたので、第二次大戦が始まるまで小学校でも家庭でもそれを称える歌ばかり歌って育った。「旅順開城約なりて敵の将軍ステッセル、乃木大将と会見の所はいずこ水師営」とすらすらと四番まで歌える自分がそこに居た。
 大連で生まれて今もそこに居ると言う日本人の爺さんの説明に感激して「日俄戦争旅順」というアルバムを、Kさんと四千円で買ったら、次に水師営の前で全員で記念写真を撮ると、こちらは、中国・大連というカラーのアルバムの最後にそれをセットして千円であった。
 いつの時代でも戦争は負けても勝っても大変な事である。
 ロシアに依る強力に要塞化された旅順での戦闘は陰惨を極め、日本軍は多大の損害を強いられたがついに要塞である二〇三高地を占拠し、そこから旅順の港のロシア極東艦隊に砲撃を加えこれを壊滅、旅順港のロシア予備軍を降伏させたのである。
 歴史は過ぎてみれば後の世代の者はあまり知ることなく過去の出来事として過ぎていく。
 重すぎる程土産の入ったスーツケースを押しながら、改めて司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでみようと考えつつ家路に着いた。
  

   俳句 二〇三高地爾霊の塔の草いきれ 
      死んだふり手足を宙に黄金虫

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