おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

  信  頼

2014-05-31 06:41:52 | Weblog

 俳句が上手くもないのに数ばかり溜まって行くので世間で言う断捨離めいての整理の意味で、句集を作ろうと思いたった。
 第一句集の時にお世話になったH印刷へ電話をするとその折の奥さんの声であった。 
 発注したい旨を告げると覚えていてくれて十一年前のそれを持って行くとの返事で約束の場所へ現れたのは、社長であろう息子さんであった。
 原稿とともに、それの入ったusbを渡しながら、こうゆう物も出来て仕事がしやすくなったから、安く出来るのでしょうというと人件費(手間賃)が上って来ているのでそんな訳には参りませんと言われた。
 三日ばかりすると、校正ずりを持ってきた。見直して訂正箇所を書き上げて序文と題字を頂いている先生にその旨メールをした。
 題字を細字にする件と言い廻しの判りにくいところを、赤字で指摘してきたので書き加えて宅急便で全部を先方へ送った。
 次の日ゲートボール場で丁度休憩をしていると奥さんから携帯電話が入った。私がもっとも強調しておいた紙質がこれでは嫌という件は校正ずりだから、普通の印刷用紙でしたまでで、勿論前回と同じ紙で行きますよとのことだった。 
 前回は今は亡きエッセー教室の牧野先生がお世話くださり、出来上がりは印刷屋のご夫婦が家に届けて来られたので南区ということでもあり一度も尋ねたことはない。
 紙を変えるなら値段も変わるだろうと、届いていた見積書も返してやっていたがどうもこのままの金額で良かったのらしい。
 一度電話をすれば良かったのに、詰めの甘さは私の習性である。
 でも玄人に任せておいたほうが良い場合が往々であって、この奥さんの鶴の一声で安心してしまう。
 百戦練磨の主と疑心暗鬼の依頼者との待機期間は、後未だ二十日ばかり続く。
 百冊がまあまあの装丁で現れてくれることを願って居よう。

    俳句  ふうわりと風にそよげり花ポピー

 

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名古屋言葉

2014-05-18 20:15:47 | Weblog

 ながら族の私はテレビで江戸時代浮世絵は初め庶民を楽しませる値段の安い現代の漫画的存在であったが、万国博覧会が過ぎると、西洋で人気が出初めてゴッホなども構図を参考にしたりした。
 と言うのを聞くとはなしに聞きながらブラケットの中のおしぼりタオルなどの小物の整理をしていた。
 広げたり重ねたりしながら、布巾にするのは、タオルより木綿のお手ふきの方が使いやすいとたたんんで紙の帯のかかったのを、ひろげるとそれは、料理屋の「蓬莱」がくれたものであった。
 白地にブルーの染め抜きで

● 名古屋名物蓬莱は
    名古屋長者の春の島
    妙なる音楽が聞こえ
     常に上人が舞を奏する化郷だそうだがなも
 と歌らしきものと下に日の丸の扇が描かれている。
 
 次からは名古屋言葉が
●あのなも   あのね●あだに  割合に ●あらすか  あるものか ●いざらかす  移動させる ●おおじょおこく 弱る困る  ●おそぎゃあ おそろしい ●かんしょ 袋小路 ●かんこおする  よく考える ●きんのう  昨日 ●きいなあ 黄色 ●そうだもんだで  それだから ●ちょう ください ●ちゃっと 早く ●ちょうすく いばる ●つれ なかま●どえりゃあ たいへん●ヒャーリャート ハイライト ●まわし 支度 ●まっと もっと ●まっぺん もう一度 ●まんだ まだ ●なぶる さわる ●よーけ たくさん ●やっとかめ 久しぶり八十日目
●知らんのなら言って聞かしたるわー(白波五人男)
●鳴かんのなら鳴くまで待とみャァーほととぎす(家康)
 
 と染め抜かれている。エッセーもめんの会で新年会をする度にくれていたものである。
 この間亡くなった義姉も三味線の会でここをひいきにしていた。栄の松坂屋の通りを挟んだ西の料理屋であったが、四、五年前に廃業して駐車場だかになっている。
 時よ時節で私達の新年会はその後、反対の松坂屋の通りを挟んだ東の「梅の花」になっている。
 この名古屋言葉は嫁いで来たころ舅と姑が日常的に使っていた言葉もありアクセントを懐かしく思い出した。
 或る時私にも、あんたも いきゃーせと言われ御園座へ銘仙の着物を着てお供をしたこともあった。
 「蓬莱」ももう無いことなので、お手拭を捨てない方の抽斗に入れた。

   俳句   時計台見えなくなりし葉の茂り

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カーネーション

2014-05-10 15:05:41 | Weblog

 ゲートボール場の藤棚がきれいだったので、先回のブログに藤棚を入れた。
 一週間たって昨日行ってみると、もう花は終わって新緑鮮やかな葉のシーズンが訪れていた。
 一昨日妹と落ち合って池のそばの喫茶店でお茶をしたにも拘らず女二人の会話はとり止めもなく続き、池の散策もせずに別れてきてしまった。
 今こうして陽光輝く庭の若葉を眺めていると、ゆったりと何の問題意識もなく時が経って行く。
 これではもったたいないと、明日の句会の兼題の蜜柑の花ってどんなだったかと、今月買った「誕生日の花図鑑」を開いて見ると蜜柑は木なので載ってはいない。
 明日が「母の日」なのでカーネーションはと見ると四月十五日、花言葉(白)愛情は生きているで載っている。アメリカのウエストバージニア州で日曜学校の先生をしていたアン・ジャービズという南北戦争の兵を敵味方なく救った人を敬って子供が白いカーネーションを捧げることから始まって、母をしのぶ花として世界に広まったと言うことである。
 赤いカーネーションは五月十四日花言葉「母への愛」としてある。赤いカーネーションは母の日の花として 誰でも知っている。
 南ヨーロッパが原産といわれ古代ギリシャから栽培されていて時代を追うごとに花が美しく大きくなってきた。
 本格的に改良が始まったのは十六世紀のことで、はじめはイギリスで盛んに改良が行われ十九世紀頃フランスで中国原産のセキチクと交配し花色も豊かになり四季咲きも登場するようになった。
 ビロードのような陰影のある赤から紅色イチゴのような明るい色までそろっていて好みに合わせて選べるので魅力的であるとある。
 母の日にカーネーションを贈る習慣は千九一四年にアメリカで第二日曜日としたことから始まった。と学習した。
 これは単なる受け売りなので、最近ニュースで囃したてているリケ女の小保方さんのような研究の成果ではないが言葉は少し慎むようにしなければ。

  俳句  ラジオと共に川田正子や蜜柑花

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