今日は父の日である。
娘が父親の墓参りに来たので、思わず私も40年以上も前に亡くなった自分の父の思い出にひたることになった。
私の幼い頃の父は資産があって働かなくても良かったので、、よく蔵の前の土間にしゃがんで、岩絵の具を削ったり溶かしたりしていた。
熱心に俳画や謡曲を習っていたので、色紙に書いた俳画が何枚も保存されていた。また、風呂上りに端坐して謡う「紅葉狩り」や「曽我兄弟」は、毎日のことなのでつい、私達子供が覚えてしまう程であった。
小学校3年生の時に戦争が始まり、食料も逼迫し始めたため、小作人に畑を二畝返してもらい、家つきの男衆に教わりながら、自家用に野菜を作り始めた。
5年生の時受け持ちの先生に「何度言っても白飯の弁当を持って来る」と叱られて、家に帰って父に言うと「麦を買ってまで麦飯を持ってこいと言うのかと先生に言え」という頑固一徹なところがあった。
そのせいか親の職業調査では無職よばわりをされて、他村から通ってくる先生には良く思われなかった。
戦後、幣原内閣の折、施策で何町歩もの農地を解放させられると、世直しだからと割り切って役所へ勤めるようになり、二階の襖をはずして会場をつくって同僚と好きな句会を開いていた。
やがてO銀行を立ち上げる時に転職し、業務が拡大すると、遠い本店へ転勤になり、家には寝に帰るだけのような毎日で趣味どころではなくなった。
また、その頃未だ珍しい銀行強盗にも逢ったが、私にオーバーを買ってくれようと、下ろして持っていたお金と、ポケットマネーが命を救った。布団巻きにされてさぞかし恐かったことと思うが、新聞には「強盗を諭す」と、でかでかと載っていた。
私が里帰りをして名古屋へ帰る日、新岐阜の駅で待っていて見送ってくれた時は、予期していなかったので嬉しくて涙が出た。
どっしりと根を張った庭にある柏の木のように、大勢の家族を見守っていてくれた父性を、頼もしく有難く思っている。
私は父の遣り残した俳句と、俳画を踏襲している。
俳句 頷くは蟻語ありしか引き返す
梅雨晴れ間宿より近く竹生島