おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

父 の 日

2009-06-21 17:48:26 | Weblog

 今日は父の日である。
が父親の墓参りに来たので、思わず私も40年以上も前に亡くなった自分の父の思い出にひたることになった。
 
私の幼い頃の父は資産があって働かなくても良かったので、、よく蔵の前の土間にしゃがんで、岩絵の具を削ったり溶かしたりしていた。
 熱心に
俳画や謡曲を習っていたので、色紙に書いた俳画が何枚も保存されていた。また、風呂上りに端坐して謡う「紅葉狩り」や「曽我兄弟」は、毎日のことなのでつい、私達子供が覚えてしまう程であった。
 小学校3年生の時に戦争が始まり、食料も逼迫し始めたため、小作人に畑を二畝返してもらい、家つきの男衆に教わりながら、自家用に野菜を作り始めた。
 5年生の時受け持ちの先生に「何度言っても白飯の弁当を持って来る」と叱られて、家に帰って父に言うと「麦を買ってまで麦飯を持ってこいと言うのかと先生に言え」という頑固一徹なところがあった。
 そのせいか親の職業調査では無職よばわりをされて、他村から通ってくる先生には良く思われなかった。
 戦後、幣原内閣の折、施策で何町歩もの農地を解放させられると、世直しだからと割り切って役所へ勤めるようになり、二階の襖をはずして会場をつくって同僚と好きな句会を開いていた。
 やがてO銀行を立ち上げる時に転職し、業務が拡大すると、遠い本店へ転勤になり、家には寝に帰るだけのような毎日で趣味どころではなくなった。
 また、その頃未だ珍しい銀行強盗にも逢ったが、私にオーバーを買ってくれようと、下ろして持っていたお金と、ポケットマネーが命を救った。布団巻きにされてさぞかし恐かったことと思うが、新聞には「強盗を諭す」と、でかでかと載っていた。
 私が里帰りをして名古屋へ帰る日、新岐阜の駅で待っていて見送ってくれた時は、予期していなかったので嬉しくて涙が出た。
 
どっしりと根を張った庭にある柏の木のように、大勢の家族を見守っていてくれた父性を、頼もしく有難く思っている。
 私は父の遣り残した俳句と、俳画を踏襲している。

  俳句  頷くは蟻語ありしか引き返す      

           梅雨晴れ間宿より近く竹生島

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歌 と の か か わ り

2009-06-11 06:56:42 | Weblog


 
私のこれまでの人生の中で歌はついて廻っている。
 
子供を育てる時はモーツアルトやブラームス、シューベルトの子守唄を、自分のメゾソプラノの声に酔いしれて、いつも歌ったり、ハミングしたりしていた。 昼寝の子供の顔をそよかぜが撫でて行き、その頃は私も幸せな気分であった。
 夫は夫で、義妹から「今日のクンパルシータは兄ちゃんがリクエストしたんでしょ。私はエルチョクロをお願いしたから気をつけててね」とNHKへのリクエストについて電話が入ったりしていた。
 やがて3万8千円もするギターを買って来て、松山放送局の専属ギターリストだったという人を招いてギターを習いだした。
 毎夜、毎夜二人で「禁じられた遊び」や「ドナウの漣」をビックで掻き鳴らしていた。
 夫は家業の卸し問屋の配達をしてきて、一日の仕事を終え、愉しみのつもりなのであろうが、子供を負ぶって細かな店売りに一心不乱だった
私としては許せない気持ちであった。
 ある時座敷に上っていった私は、そのギターをふんづけて潰してしまった。今で言う切れると言うことだったかもしれない。それを見ていた夫はなじりもせずに、ギターはそれきりになってしまった。今ではすまなかったと後悔している。
 子供が成長して行く頃、からおけブームが始まり我が家でも家族で歌いに出かけるようになり夫が歌うのを始めて聞いた。
 「男がしらふのまま人前で歌えるか」と言ったが、中学生の頃、「ハーモニカの県代表で出征兵士を送りに名古屋駅へ吹きに行っていた」と言うだけあって音感は確かで、
鼻にかけて歌う流行歌はなかなかのものであった。また、私の歌を何と思っていたのか聞くと「下手な奴だなーと一生思っていた」という人の悪さであった。
 定年後知人と老人施設へ行き「帰り船」や「大利根月夜」などリクエストされて歌うとお年寄りが泣くと話ていた。
 田端義男が名古屋市の公会堂で歌謡曲の大会に優勝した時居合わせたと言っていたが、案外自分も応募していたのかも知れない。
   

  俳句  蟻登る句碑に戦のありしこと

      炎昼や蟻塚のみが残されぬ

 

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イ ン フ ル エ ン ザ 騒 動

2009-06-03 06:21:30 | Weblog

 過ぎたるは及ばざるが如し。
 一国の総理がマスメディアに利用されてか利用してか知らないが、「イ
ンフルエンザに注意して」と呼びかける姿は何とも陳腐な感じで、麻生主相軽すぎと言いたい。
 アメリカでもオバマ大統領がGМの破たんを、「これは終わりではなく再生です」と国民に語りかけているが、こちらは妙に格好良く様になっている感じがする。
 今年豚に端を発したメキシコ、カナダ、アメリカなど海外で出現したAソ連型のタミフルが遣えない、いわゆるタミフル耐性のウイルスが日本にも上陸してきた。
 新聞やテレビの大騒動となり、感染者が出た地域は幼稚園や学校を休みにしたり、空港で足止めされたりした人も居た。
 症状は40度近い高熱とそれに伴う悪寒、震え、腰痛、関節痛、頭痛までするとあってそれを予防するために、マスクが売れに売れて市場に無くなるほどであった。
 インフルエンザは湿度に弱いとあって、マスクは携帯型の加湿器と言えるのだそうである。
 現に私も浅間温泉で行われた一泊のKKKの同期会に行くのに名古屋の高速バス停へ「マスクを着用して集合」とあった。
 一応持参はしたが下火になっていたので、誰も着けはしなかった。それでもそれが理由で3名のキャンセルが出た。
 そんなことは忘れての楽しい宿泊であったが、翌日松本城のさつき展を観て歩く時、せっかく持って来たからと言う訳でもないであろうが2人ばかりがマスクを着けて歩いていた。
 
私はそのことよりも、浅間山が煙を噴きあげていないほうがショックでこの地のメンバーの一人に聞くと、煙を吐く日は地元のテレビで発表をするそうである。
 何につけてもマスメディア全盛の現代である。

  俳句  甲羅干す亀の並びて五月尽

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