おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

2011-11-24 00:44:15 | Weblog

   柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規
 秋ともなれば日本列島は至るところで柿が生る。昔戦の折の兵糧の足しに家の周りには柿の木を植えるようにとのお達しがあった時代もあったとか。
 従って私も柿とのつき合いは濃くて長い。
 物心のついた頃母の実家では柿畑が一山おおうくらいあって、安城農林を卒業した叔父が富有柿や次郎柿の品質の良いのを育てる研究をして出荷していた。
 私の実家では私が生まれる前からの柿の木が東の蔵の横に二本と西の土塀の側に一本とがあり、太平洋戦争の折は新聞紙で袋を作りそれを父が脚立に乗ったり、梯子に登ったりして幾日もかけて袋掛けをして子供のおやつを確保してくれた。
 終戦直後学校から帰るとむしろいっぱいに干してある芋きりをつまんだり二階の屋根つたいに柿の三、四個を採って齧っていると裏を走る越美南線の汽車から汽車通の同級生が手を振っていくのにこちらも手を振って答えたりしていた。
 やがて食料も潤沢に出回るようになると柿の記憶はとぎれているが、いきなり都会の真ん中に嫁いでみると、道路に生えた一本の草にも郷愁を覚え、デパートの屋上から遥かな県境の山並みを眺めて父母のことを思って、涙ぐんだりたりしたものである。
 土一升金一升と言われた商家では姑が僅かな隙間を見つけて瓢箪を植えたりしていたが、或る時「桃栗三年柿八年」と言いながら柿の苗を植えていた。本当に八年経つと実が生りだして諺通りなのに驚き一年目よりは二年目と僅かではあるが数を増していくのを喜んでいたのに、十年目で新幹線が出来るのに伴って家が立ち退きになってしまった。
毎年のように母は美濃柿を送ってくれていたのに親の心子知らずであたりまえのように思っていた。
 孫の小さい時二人を夫の車で連れて行き茶色の一斗袋に一杯採った時は初めての経験の孫はご満悦で、今でも覚えていると言う。
 ここ二、三年は柿の交流が無かったので先日入った喫茶店で積まれていた山形の柿の一ケースを東北の復興にかかわれるならと買って知人にお裾分けをしたが種の無い柿であった。
 昨日実家から宅急便が届いて、中から沢山の柿が現れた。今年は柿の生り年だとみえる。 それにしても伸びたい放だいに伸びた木から実をちぎるのは大変であったろうと早速義妹に礼の電話をした。
 
毎日胃を悪くするほど戴いている。

  俳句  冬ざれる前にせめてと庭を箒く

       開ききり固さ忘れし石蕗の花

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自 転 車 の マ ナ ー

2011-11-17 22:07:06 | Weblog

  十月末に各新聞が「暴走自転車は歩道の凶器」
各都道府県警に歩道の事故を減らす為に自転車は車道を通行させることを徹底するよう通達したと書きたてた。
 待てよと思った私は巻尺を持って毎日走って居る歩道の巾を計りに行った。 溝板含む二米の歩道と二十糎の巾と高さのブロックの外側に五十五糎巾の線引が続いている。此の巾でどうして自転車が走れようか。
 自転車のマナーの悪さもさることながら、先ずは専用道路を確保してからでなければ車との接触を起こし、返って事故が増えることは明らかである。

新聞への投稿文であるが、普段八百字を基本に書いているので二百五十字と言うのは何と大変な事!五字ほどオーバーか。おまけに締め切り日を間違えて、フアックスで良かったのに投稿し損なった。今時新聞3部もとって居て、読むのに大童な私が物申すなどとは柄に合わぬ事であったと、皆さんの投稿文を読んでいる(11月20日)


  俳句   掌の林檎に聞かす独り言

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思 い出 の 曲

2011-11-08 14:59:15 | Weblog

はからずも娘にもらった一枚の映画の券で三越劇場の「ジュリエットからの手紙」と言う映画をみた。初恋の人を孫とそして後で孫の恋人になる女性との三人で探しながら旅をするストーリーの映画である。
 主人公の女性は夫を亡くした七十代の女性であるが、何十軒
もの家を訪ね数多くの遍歴の後に思う人に逢えてハッピーエンドで終わった。
 これは映画の話であるが、実は此の春、東京で薬局を開いている高校時代の同級生から電話があり、学生時代の思い出として死ぬ前に一度Oちゃんに逢いたいのでセッティングして欲しいと頼まれた。二人は初恋の仲であった。
 彼は今では車椅子生活とのことである。二人はその後岐阜羽島の駅で逢ったと言っていた。
 「あんたも来る?」「いえ
いえそんな」くらいの他愛ない話であったが、私にも人生の終盤になると死に土産に逢って置きたい思い出の人はある。
 イタリヤ旅行の折ポンペイ遺跡をみたあとに、地図ではもっと離れているところであるが暫くして走っているバスの中で、ガイドが「あの左の彼方に見えるのは「帰れソレント」の歌で有名なナポリ港です。此のツアーではそこには寄りません。」との説明であった。ところが、ところが、私にはこの言葉と同時に「帰れソレントへ」の歌が鮮明に脳裏に浮かんだ。

     浮き雲流るるさびしき野辺路を
     ただ一人行けば思い果なし
     はるかにしのぶは幼き昔の
     友の面影心に消えず
     帰り来よ我を忘るな
     帰れソレントへ
     帰れよ

と言うこの歌を若い頃には何とロマンチックな歌詞だろうと思っていたが、何故かいつしか私の心の中に染み付いていた。
 
人生も先が見える年齢になると私もその思い出の人に逢って置きたいと言う衝動にかられる。
 しかし長年歌ってきたこの曲のように、心に消えぬ思い出に留めて風の便りに健在であることをお互い心に留めておくだけにしたほうが良いのであろうとついつい口ずさむメロディである。

 俳句  無花果の熟れを確かむたなごころ
                           

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