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おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

昭和百年我が家のお盆

2025-08-17 09:54:18 | Weblog

   十五日頃の新聞は、ここのところ戦後八十年、八十年の記事がにぎにぎしい。
  さて我が家の今年のお盆は例年と変わらず、事前に息子が盆提灯を設置しに来てくれた。
  それに先立ち仏間の障子を、二本張り替えた。置き物も拭いて並び替え、仏壇の掃除も痛い腰を
  我慢しながら、完璧にきれいにした。
   十四日に娘宅の七人が、到着、緑区の自分の家の墓掃除をしてから、来るので先ずは
  抹茶を一服、男性二人は二服召し上がる。曾孫二人は十二支のえとを玩具がわりにして、あそんでいる。
  下の児が這い這い自由でつかまり立ちが、出来るようになっているのも可愛い。
    経本に赤丸をつけて、おいたので、私が御導師をつとめて、自行化他を簡単にすませ、「家内安全、一家
  和楽に」で占める。供花を持ってお墓参りに行く。
   二、三日前に「ひさご」で会食した男の孫の家族であろうか、じっちゃんの好きだったお酒のワンカップが供えてあった。
  予約してあった「来多のや」へ直行し「ひつまぶし」に舌ずつみをうって帰って行った。
   二十五日からスイスへ旅行だそうだが仏のご加護が、ありますように。
  十五日は、稲沢の孫夫婦が、一社の妹を乗せて三人でやって来た。やはり前日と同じように抹茶をお水
  立てで頂いてから、仏壇に手をあわせ、私を乗せて「鈴のれん」へ食事に行った。
  この夫婦には秋に第一子が産まれるらしくおなかも少し目立つようになっていた。車も一人一台の時代
  なので、若葉マークのついた白い新しいので来ていた。この家で学齢期過ぎまで一緒に住んでいて
  デズニーランドへ遊びに行ったりした頃が懐かしい。
   私の力ではオルガンの上にのせたパソコンや印刷機が動かせないのを帰りがけにどかせて行ってくれたのが、
  嬉しく「おててつないで」や「埴生の宿」をひそやかに弾いた。
   短い逢う瀬であったが、じっちゃんも喜んでいる筈である。
  一社の妹も旦那が来なかったが、充分心使いのできる、良い奥さんである。

         盆提灯障子も明るく家族待つ
         百日紅不戦の誓いか高く咲く
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 性 分

2025-07-11 13:44:46 | Weblog

 暑い日がつずいていたが、やっと梅雨が明けたらしい。
私は先程から二階の、東の窓を開けて路地の庭木を、眺めている。枇杷と柿と茶とリョウブなどが並んでいる。
 今頃の時季になると、枇杷が沢山、生ってある年には娘が三キロも採ってジャムにしたりしていた。私は朝早くから鳥が実を食べに来て、喧しいのでネットを張ったり、高枝ばさみの届く所は自分で採ったりしていた。庭は毎年春には知り合いの庭師のⅯさんに剪定してもらっていたが、大屋根に蜂の巣が出来た時、取り除いて貰おうとすると「こんな高い所はわしには出来んわ」と言われるので、私と余り歳の違わぬⅯさんでは、何事かが起きてからではと庭師の仕事を娘の言うように市のシルバーに予約した。
 見に来た方がわたしの「枇杷と柿は切らないで」と言うのを手帳に書かれたので良しとしていた。当日三人も来られたので椅子を三脚だしてお茶菓子をセットして家の中で新聞を読んでいた。
 南の庭のクロガネモチは脚立に腰掛けて手際よく沢山の枝を斬って車に積み込み棕櫚の木は鋸が違うのかそのままなので大きな掌のようなのが風に吹かれている。梅や椿は体よく切れて紫陽花はこれからさくので構われなかった。
 さて東側の枇杷の木の枝は車に積もうと抱きかかえられているのをみると花がi一杯さいている。「桃栗三年柿八年」やっと青い実が生りだしたのも根っこから、きられてしまった。私は生りものの木が楽しみだから大好きなのである。
 娘はついて廻って思うように伐らせたという。何事によらず、それが失礼だと思う私の性分で一生、来てしまった。確認と指示ができないのである。
 もう老い先短いがこの性分を、直そうと下を眺めている。
 二番茶でも摘んだりして、茗荷の芽が出るのを待つとしようか。一人住まいは侘しいものである。

俳句   天の川昼餉は星型ハンバーグ

 
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習字

2025-06-17 13:18:01 | Weblog

 週一回デーケアへ通っている。
そこでは月一度の習字を選択して楽しみにしている。何を今更と思わぬでもないが、終戦後、私の年代の者は、習字の手本を黒塗りにされてその教科がなかったのである。
しばらくして復活したが、その時は女学生で選択科目だったので、音楽などをやっていた。
 定年退職をしてから、俳画を習いに行っていた時のように、自分で自分の用意をしなくてよく、硯、墨、筆、紙、など、滞りなく揃っている机に着くと、先生が来られる、ご丁寧に全員に表紙を手書きしてくれている。此処へ十七年目とか言う先生は、「名東鯱友会」を立ち上げておられる立派な方でスタッフが送り迎えをしている。
 五言の句からなる排律を習っている。二字ずつ書いて合格すると朱書きの丸を貰う。

       詠富士山   「柴野栗山」
     誰将東海水   誰か東海の水を持って
     濯出玉芙蓉   濯い出だす玉芙蓉
     幡地三州盡   地に蟠って三州尽き          
     挿天八葉重   天に挿みて八葉重なる
     雲霞蒸大麓   雲霞大麓に蒸し
     日月避中峰   日月中峰を避く
     獨立原無競   独立原より競う無く         
     自為衆嶽宗   自ら秀岳の宗と為る 
          
 今、中程を習っている。成し遂げて何人かを県の美術展に出したい様子であるが、高齢者、果して最後まで行ける人は何人いるであろうか、後半分である。
           
     俳句  五行詩を習ふデイケア梅雨晴れ間 
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 忙しかった五月

2025-05-13 14:54:56 | Weblog

 孫の次男の初節句に招かれた。
今風の、こじんまりした節句飾りの前でコンビラックに寝かされた次男は元気に足をばたばたさせている。
 突然私の何処から湧いてきたのか
     しつたら、しつたら、しつたらね
     かいぐり、かいぐり、かいぐりこ
     おつむてんてん、おかお、ばー
 と口をついて出た、あやし言葉にその子は、にこにこ笑顔で両手をぱちぱちと動かす。音はまだ出ない。  かいぐり、かいぐりと言うと、まだ出来ないせいか心持ち変な顔をする。
私自身記憶にない歌で、突拍子も無かったので、嬉しくなった。
 二歳のお兄ちゃんは節句飾りの刀をいじっていたら、抜き方が解ったので喜んで飛び跳ねて振り回している。危ないからないないしてをこうと、言っても聞かない。両親は知らん顔をしている。
 家族七人でご馳走をいただき、粽や柏餅の三時までいて帰って来た。
 十日には家の孫の次女の誕生祝いに招かれている。
又別の日には、ポルトガルから帰国していた孫の家族達と、十一人で愛知牧場のそばの「雅」で会食をしたりもした。
 子供二人、孫五人、曾孫六人の私の大層嬉しい悲鳴の五月であった。
 来年の事は解らない。

        鯉のぼり撮る内泳げ風よ吹け

 
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心 な ら ず も

2025-04-10 15:03:25 | Weblog

  三月の句会の合い間に先生とA氏と私「今年も九十代の此の三人、例年通り頑張りましょう」
 と私が言い内諾の目くばせをしたその月に、A氏が心筋梗塞で、救急車で病院に運ばれた。
  その旨副会長に連絡があったと聞いて、早速A氏宅に電話をしてみたが、家の電話にも携帯電
 話にも繋がらない。日頃丈夫なA氏、すわ一大事と奥様あてにファックスをした。「さぞ驚かれ 
 た事でしょう。私は主人を亡くして二十年になりますが、車で送ってもらって香具山会館へ俳画を習い
 に行って居る頃からのお知り合いです。毎年の句会の展示会には、高い机の上に乗ったり、脚立に上がつて飾り付けをしていただいたものです。アオキでカートの集配業務をしておられた時も買い物に行くと、よく顔を合わせたものです。この上は焦らずに、ゆっくり養生してくださいませ」と送った。
  しばらくして、奥様から電話があった時には「退院なすったのですか」と思わず期待どおりの
 口を聞いてしまった。「いえ十五日に亡くなりまして家族葬をすませたところです。今日は会費と
 心ばかりのお口汚しを送らせていただきましたので、皆様によろしくお伝えください」とのこと
 で、「ええっ」本当にびっくりしてしまった。
  句を五句と会費当月分、千円で行っている句会であれば会費の停滞など頂く筋合いは
 ない。会長、副会長、会計の三人で香典を持参して四月一日の句会の後に訪問した。
  日進市の栄町とは知っていたが、オートロックのこんな大きなマンションがあるのは知らなか 
 つた。いきなり伺ったので「今、主人のかたずけ物をしているので、散らかしているから」と中
 へは上げてはもらえず、香典も、会費だと言うお金も受け取られないので押し問答の末「それな
 ら今迄のA氏の句を全部打ち込んでお届けします」と言うことで、心ならずも外から手を合わせ
 るだけで終わった。  A氏は静謐な方であった。
  今、私はこの方の句をパソコンで打ち込んで居る。
   
        昭和百年桜も見ずに友逝けり

 
  
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九 十 二 歳

2025-03-10 13:07:32 | Weblog
 
 三月一日の誕生日の前日娘が家へ来るようにと迎えに来た。
庭を眺めたりして、ゆっくりしていると、近くの家の孫が曾孫二児をつれて遊ばせに来た。 
 夕食後私は座敷で、テレビの先回の續の「坂の上の雲」を見た。乃木さんが二百三高地を戦うところである。
 翌日まだ、それを見ていると「十時半に家を出るよ」と言うので、その續の収録を頼んでおいて、娘夫婦と車に乗った。
 私の九十二歳の誕生日祝をしに予約してある島田橋近くの「炭焼き鰻富士別亭」へ行くというのである。
平針に入ると車窓の風景はビル、ビル、ビル、と現代風の建物ばかりで緑が無くまるで外国へきたようである。
 孫一家と「炭焼き鰻富士別亭」で合流し席につくと誕生会が始まった。
それぞれ好きな鰻のメニューを頼み、待つ間二歳の海君は初めて大人の椅子に座れて嬉しそうである。料理が運ばれて来ると私のお盆は器が全部金色ずくめである。
 娘が「お誕生日おめでとう」と胡蝶蘭の鉢の包みを並べてくれ、孫夫婦からは写真を取り込んだ手鏡と、キーホルダーの入ったブルーの袋を贈呈された。
 「ありがとう」 とだけ言ってお礼のうんちくを言うのを忘れた。
 帰りは赤池農業試験場へ梅を見に寄った。今年初めての温かさで日曜日とあって大勢の人出であった。リニューアルされた園内は、蠟梅ばかり咲いていて梅はまだ蕾であった。
 家族らが一回りして来る間私は空のベビーカーのそばで、ベンチに掛けて柵の向こうのお猿の演技を見ていた。
 海君はまだ居たいようであったが、こうして私の九十二歳の誕生日は、楽しく過ごさせてもらった。
 緻密な計画の娘夫婦に感謝。
 
           雛飾り誕生日もある九十二歳
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従妹の家族

2025-02-16 04:15:30 | Weblog
二十年以上前に亡くなった従妹の主人から年賀状が来た。
 最近流行の、写真仕立てで学生服の可愛い十代の男女と、白髪の自分を真ん中にした二枚が装
丁してある。この主人は、いわゆる中央で認めている「柴沢真也」と言う詩人である。
 孫たちであろうと、確かめようと思うが、私の母達も亡くなっているので、電話をするのも躊躇われる。
 従妹の家は、第二次大戦の折、岐阜が焼けて、父親は出征していて、その時に生れ、戦後シベリアに抑留されて、その地で亡くなっているので、従妹は父親の顔を知らない。靖国神社の靖をとって靖子と言う名前であった。
 学生時代バイト先の「金神社」の息子で、当時国語の先生であったこの人に見込まれて夫婦になった。
 四十年程前、叔母の家族に私と妹が加わってハワイ旅行をした折、靖子ちゃん夫婦とその娘がパーティーの時鮮やかなおそろいの服装で十年目にできた娘と言っていたことを思い出す。この時の娘に出来た子供二人であろうと察した。やはり神社とかお寺へ嫁がせたと聞いていた。
 夫婦で北海道旅行をした時、礼文島スコトン岬の最北端でシベリアの方角に向かって手を合わせたと言う靖子ちゃんは、生前名駅の前のビルで、着付け教室をしていたらしく、オーストラリアで、七百人も列席した結婚式で花嫁の手を携えて、綺麗な花を添えたと言うひたむきな人生の彼女の終焉は、「癌」であった。
 その日常が書かれている「風のつらら」と言う小説と詩集「アヒル顔の少女」を再読し批評を書くつもりで筆を執ったのであるが、それに至らぬところで終わってしまった。

      賀状読み逢ひたくなって逢ひに行く  (A先生

      注連飾り袴の巫女も紅さして      
      牡蠣鍋をつつきしうから皆逝きぬ   
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去 年 今 年

2025-01-14 08:53:27 | 写真を削除したい

 新年、十日にもなって風邪をひいてしまった。今迄風邪なんぞに罹らないと思っていた。
食間にパブロンを、二錠も三錠も飲んで咳をしのいでいる。
 年末からを、つらつら考えて見るに、ちょっと調子に乗りすぎたのかなあ。
暮れの二十一日、曾孫の二歳の誕生祝いに呼ばれた。
 娘夫婦といつ処に車を下りる私を見ると、「オーバーバー元気でちたか」と寄ってきたのには
驚いた。祝儀袋と絵本をたずさえていった。バースデーケーキも美味しかった。
三ヶ月の弟もチャイルドシートで大人しくしていた。  
 帰って年賀状を書いて印刷して出した。
毎年のことだけど娘宅が「正月を過ごす」ようにと迎えに来てくれた。金一封に最中を添えて
支度をしていると居合わせた「息子が宿泊代だったら、三万いれなきゃ」とまぜっかえす。
彼が正月飾りを恙なく古くなった電灯も替えて行ってくれた。本来は息子の家で集まるのであるが、
「女房が風邪をひいた」と言うので、直系のござらっせのそばの孫宅になった。
早いもので、この家の曾孫は六年生と三年生である。乾杯の後には、大きなバスケのボールがその上を
行き来したが、誰も
落とさない。この曾孫達が暖かいウールのソックスをくれた。
 七日はヤジロベーで新年会をかねて句会があった。
次の日はデーケアで月一の習字があった。
 元日のお参りの勤行会をさぼって娘が収録して置いてくれた十六編もの「坂の上の雲」を見ていた
せいで、運気が下がって風邪をひいたのかと歩いてお参りに行った。     自制
d(0)   俳句   七草粥済ませ昼餉の句座に出る
           家壊しいずこに行しか石蕗の花
                                   二千二十五年  二月十五日




























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生き方

2024-12-15 18:03:16 | Weblog
<十二月ともなると方々から、喪中はがきがくる。strong>
中でも一歳年上の従兄の訃報には驚いた。
戦時中、隣村へ疎開して来ていて、彼の学校は、武儀中学校、私は武儀高等 女 学校 。 終戦になって、
学区制になると、しかもバレー部の部長をしていた彼のもとへは、私の友達も多数転校して行った。
 私は彼の母、叔母の仲人で、名古屋へ嫁いで来ている。
その後彼は長者町の八人兄弟の同族会社を社長として、引継ぎより大きい立派なものにした。
 六人きょうだい私だけを残して、みんな亡くなって居る私は本当にがっかりした。
意気消沈して、毎日を送っている私が、自分を力ずけようとして考え出した事、人から見ると笑える
ようなことかもしれないが、内々私自身を「水谷個人会社」にすることであった。
先ず外郭、内閣、己格、と総体を三等分することである。
 独り住居の家の総体を「周」とする。第二は中間の人となり「「公」として社会性をもたせる。
第三は自分の身体的な生活のすべてを「己」として衣食住の業務を遂行しよう。
 周、公、己の三つである。今迄漫然とその日暮らしをしていた。
これからは意識して朝は庭木に水をやり草刈りをする。新聞を二時間読むところからが、「公」である。
月に一回の句会があり抽選で場所取りもしなければならない。エッセイ教室もあり、ブログの更新もある。
週一でデーケアへも行く。
 己は「独り居の一汁三菜鰯焼く」と言ったところであるが、十時だと言ってはお茶をして三時には
ケーキなどと好き勝手をしていては太りかねない。
 今日は、年末準備に息子がカーテンを新しくしていってくれた。
自分を分割する事によって私は私と言う組織の社長である。何だか力が湧いて来た。
                                      二千二十四年十二月十五日
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2024-11-13 14:33:08 | Weblog

 子供の頃、弟妹が書道塾に通っていても、私は何故か好かなかった。
終戦後、しばらく教科に書道と言うものがなかった。これ幸いと書はたしなまなかった。
 今になってデーケアで、月一回午後のリクレーションの時間に書道がある。選択は自由であるが、私は選ぶことにしている。
私の書いた字を見て、先生が「習ったでしょ」と再三言われるので「先生、清華会ってご存知ですか」と聴くと「知ってる、知つてる」と言われるので「娘の婿さんの母上がその精華会の理事で、やはり教室を幾つも持っておられて、あちこちで展覧会をやって見えましたので、招待される毎に夫とよく見に行ったものです。額装や掛軸をよくいただくので、たまには買ってあげましょうと、「坂角」でなさった時に行ったら、欲しいと思った衝立が六万円もしたので、買わずに帰ってきてしまったんですよ。良い字を書かれましたから、私の場合は、習いもせずに見て習う見習いでしたかもねー」と言った。
 今、李白の詩を読ませて大きい字を二字ずつかかせられるが、その中で幾人かの合格者の字を名東鯱友会に出したからと、それの出ている県美の趣味の作品展の招待状を頂いた。
 如何にせん私も日進市の文化祭ににぎわい交流館で11月2日から17日まで俳句の短冊の展覧会をしている。終わりの日には撤去にいかねばならない。
 東郷町から来ていただいているその俳句教室の先生は14日Ⅰ5日が東郷の俳句展だから、見に来るようにと電話がかかってきている。
文化の日のある秋は展覧会の花盛りである。これらは嬉しいことではあるが、亡くなったりした後はあの先生この先生の足跡だけが残っていくのかと思える。現に亡くなったお母さまの大きな字の「文化教室」の看板は下ろされている。

           二千二十四年十一月十三日




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