おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

発展のかげで

2018-05-31 21:09:14 | Weblog

  今、私は複雑で不愉快な気持ちである。隣に広い土地を持つТ建機が大きな鉄骨の建物を建てだしたからである。
 着手するのにタオル持参で挨拶に廻られたしそちらの土地であれば、おめでとうとは言っても苦情は言わないのが本筋であろう。
 町内で一番古くから住んでいるのは当家である。私共が昭和の終わりに此処へ移って来たときは南側は広い雑草の空地で、境は柵であった。柵の間からも太陽が降り注ぎチューリップ等四季の花が花壇に良く咲いた。東側は一段と高い県道大府線沿いの広い草原の空地であった。ゴルフのウッドを持ち出して私でも130ヤードは飛んだとかいって孫をあそばせながら楽しんだものである。秋には「あれマツムシが鳴きだしたちんちろちんちろちんちろりん」と小学生唱歌を唄ったりして、いい気なものであった。
 4,5年経つと南側の土地には大きな学生マンションが建った。東側はТ建機と言う業務用の車をリースする会社が事務所と洗車をする建物を建てて、街の発展と共に台数と土地を南に北に随分と広げて行った。そうして今回の大きなビルの建築となった。
 地ならしに今までのコンクリートをはがすときなど地震かと思うほどの音量や地響きだったりした。一昨日など岐阜県から旧友が尋ねて来てくれたので半日程外に出ていて帰ると、おそろしく大きくて高い鉄骨の組み立てが大勢の人足で見事に立ち上がる所であった。
 南の窓際に生活の拠点を置く私は高い建築現場からまる見えなので、昼でもカーテンを引いて電灯をつけている。今まで朝日や宵の月が見えた東の空はどうなるのであろうか?建ってみなければ判らないが、二階でやぐら炬燵に入りながら愛知学院の正門の桜が見えた頃が懐かしい。
 街が発展する時は住民もおびただしい変化を受けるものである。

       俳句   若葉して家中の窓開け放つ

                                         (二00一八・0六・二一)
                                       

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  名 古 屋 城

2018-05-11 18:07:38 | Weblog

 戦争中名古屋が空襲で焼かれるのを、遠い岐阜県から、家族皆で無言で見ていた。夜空を焦がす真っ赤な炎が間近に見えた。
 終戦になって復興が始まったが、庶民の生活の糧が先で、しばらく城は無かった。
 そんな頃、二歳年上の従姉が、叔母が焼け出されて岐阜に建てた家に下宿をして、名古屋ドレメに通っていた。この家は伯父がシベリヤへ抑留されていたので、寂しいだろうと私も良く寄り付いた。
 ある時従姉が名古屋城へ行って見ないかと誘ってくれた。喜んで出かけたが、城は石垣のみで人影もなく殺伐としているばかりだった。町へ出ると柳橋あたりで進駐軍が話かけてきた。興味しんしんの私が覚えたての英語で答えようとすると、従姉がおっかない顔で袖をひっぱるので、話せなかった。
 名古屋城が建ったのは 結婚して子供が生まれてからだった。末っ子を、ベットに寝かせて、すぐ帰るからと、姑に頼み、上の子をつれて夫と待望の名古屋城を見に行った。はっきり覚えていないが、その日は芝居でいうなら、初日の顔見世だったのだろうか、、どこへ行くとも聞いてなかった舅も名古屋城を訪れており、ふすまの絵の大きな部屋の廊下で会って苦笑いをしたものである。
 それからも、菊人形だの桜だの、能舞台だのと、よく訪れた。再建から60年近く経ち、名古屋城は復元される事になった。築城当時の詳細な図面が残っていて、「史実に忠実な復元」が可能で、河村たかし市長はエレベーターを設置しないことにこだわっている。市は誰でも上層階まで、登れるようにしたいとしているが、具体的には新技術のめどは立っておらず、どこまでバリアフリーを実現できるかは不透明である。
 先年姫路城へ行ったが私の足では上までいけなかった。大阪城は弱者にはエレベーターがあり広々と大阪が見渡せて「あべのハルカス」もみて堪能した。今更上まで行けなかった城の名をあげつらうことはやめよう。私なりに考えたことは、そのような名所には人力車が人待顔で並んでいるから、それで行こうと決めたのである。

 はて河村市長さんはどう思われますか?
                                (2018-05-11)

          俳句  母逝きて故郷遠きねぎ坊主

 

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