おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

未 知 の 空

2013-09-24 05:42:49 | Weblog

 

 二十五年ほど前には二キロほど南のやはりこの道路の近くに住んでいた。
 やがて道路は開発されて二車線になってしまったけれど、その頃は道の両側は桜並木であった。
 小道を二十メートルほど入った我が家はトイレもお風呂も外の山際にあって風呂上りには、茜雲を眺めながら、自ずから「夕空晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫鳴く」と言う歌が口をついて出たものであった。
「思えば遠き故郷の空、ああ我が父母如何にお在す」と続きを歌いながら家事にいそしんでいた。
 昨日、外孫が敬老の日だからと那須高原の有名な羊羹の土産を持って現れたので、来年一月に挙式と結婚の決まったことのお祝いを言った。「そうやって旅発たなければならないのも人生よ」と名古屋を離れて栃木の彼のもとえ嫁いで行くのをいさぎよしと褒めたり、時代が違うけれどと私を例にとって、二十三歳で見合い結婚をしてくる私に母は「遠くの親戚より、近くの他人、とすずしい顔で残酷なことを言ったのよ。だけどそうさせなければならない自分に言っていたのだと、今になって解るわ」と言い、出て行ってやるのも親孝行よと慰めもした。
 ネックレスやイヤリングの繊細な好みの綺麗な彼女に折角取ったファイナンシャルアドバイザーの資格も銀行勤務も、無になるようでも、相手の為に生きて居れば、そのうち芽の出ることもあるわよと、閉まってあった陶器や毛布などの新品を良ければと選ばせて持たせた。
 
最近の私は用心深く日暮れと同時に雨戸を立ててしまって夕月やら星をみることが少なくなってしまったが、子供のうちからベルギーフランス、イタリヤなどヨーロッパや各所へ行っているこの娘はもっと広い真昼の空を展開することが出来るであろう。
 それと前後して、レッグウオーマーを持参して現れた男の内孫一家の八ヶ月になる曾孫は、お尻を上げ気味に這い這いをしていた。

  俳句  縁ありて二人で眺む天の川
      臥待月姉妹の若き日の話

 

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オ リ ン ピ ッ ク

2013-09-13 14:19:34 | Weblog

 大東亜戦争と言ってしまう年代の私である。
 第二次世界大戦の始まる前小学校一年や二年生頃映画を観に行くとその都度ニュースで「前畑秀子」「前畑頑張れ」と耳にたこが出来るほど叫んでいた。
 第十一回ベルリンオリンピックで女子平泳ぎ200メートルを日本が優勝した時のことである。その後戦争が始まったり終わったりしても、幼少期に聞いたフレーズは耳が忘れない。今でも耳の奥深くで響いている。
 千九百六十四年(十月十日)の第十八回東京オリンピックは、千九百五十九年(昭和三十四年)ミッチーブーム以降テレビの受像機が(白黒)急速に普及したので家に居ながら観ることが出来た。
 聖火台のリレーの点灯や、大会の行進などは胸を熱くしながら観たものである。
 特に日本の上は赤、下は白の制服の出で立ちは、凛々しくて清楚で見栄えが良かったものである。
 商売をしながら、三和土を行ったり来たりして観ていたが、競技といえば東洋の魔女(全日本女子バレーチーム)の仕合を手に汗して応援したりマラソンのアベベの優勝を観たりしたことを思い出す。
 当時どこで遊んで居ても自分の観たい番組になると、きちんとテレビの前に座っていた息子は、私が前畑秀子のニュースを食傷気味に観ていた齢格好と同じ六歳くらいであったから、私よりは、はっきり覚えていることであろう。
 今回の二千二十年の東京オリンピックの誘致は安部政権の頑張り特にあの堂々としたスピーチが効を奏して政権の景気回復を渇望する国民にとっては本当に良かった。
 しかし前回の戦後の経済の高度成長期で人口構成も若く希望に満ちていた時とは違って、少子高齢化にもかかわらず「明日をつかもう」とスローガンを掲げたからには相当な覚悟を持って対処しなければならないと思う。
 国債の発行高も、前回からは何倍にも膨れ上がっている。
 本当にやって欲しいことをしっかりと国民目線で見据えながら、ゼネコンと不動産屋と広告会社だけが涌き上ることのないように七年間を進むべきである。
 私も更に七年間頑張って生きて成果を見なければならない義務が生じてきた。

 俳句 七回の敬老一つやり過ごす
    百日紅白きも高く揺れにけり

 

 

 

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  秋 の 空

2013-09-04 18:58:20 | Weblog

 連日酷暑であったし残暑も厳しいので、日頃の疲れを癒そうと隣の長久手市の温泉に行くことにした。そこへやって来た息子が送って行こうかと言うのでバスの時間も調べてあるから、帰りに迎えに来てくれた方がいいわ電話をするからと言って家を出た。
 私としたことがバスに乗ってから携帯電話を忘れたことに気がついた。遂に忘れたことが無いのに家に留守番が居ると言う心のゆるみか、何とかなるわと取りに戻らなかった。
 ゆっくりと炭酸風呂に入ったり、ジャグジー、露天風呂などで一時間余、身体をやすめ三時半に予約してある美容院へ入った。
 未だ早くて時間に余裕があったので公衆電話まで行き八年前に夫が救急病院へ運ばれた時に見てかけた手帳に控えてあった番号に掛けてみると番号が変わっていて掛からない。
 髪のカットとエステを済ましてロータリーへ出た。電話がないからくるはずはない。
 入浴している間にスコールのような雨が二度あったので、駐車場やロータリーはしっとりと涼しく秋の気配すら感じられる。
 澄み渡った青空はまだ鰯雲とはいかないが高くおおらかで余り遠くない山の稜線がはっきりと夕暮れの近さを思はせる。
 実になってしまった二つの伸びた蓮が一枚ガラスからコヒーショップをのぞいているようなのも趣きのある風情だ。
 風呂あがりで雨上がりの晴天なのがすがすがしい。
 来るはずも無い迎えの車をそれとなく待ちながら、まあいいや連絡の良いバスは一時間後にあるからと、昔の夕涼みのように外気を楽しんで空と会話をしていた。
 のほほんと家に帰ると息子が四時から二十五分駐車場で待っていたとかんかんになって怒っていた。ほんの二、三分から五分くらいの行き違いだったのだけれど、私が悪かったのだから、黙っている。
 夕食時「お詫びに秋刀魚御飯と蜆汁、うる目鰯、茄子の煮付け、ウィンナと野菜炒めなどだけど、食べない?」と二階でパソコンをしている彼に手にした携帯でメールをすると「不要」と返って来た。
 留守番電話にばかりしている家庭の電話や子機をオープンにした事は言うまでもない。
 二百十日も無事過ぎたしきっと明日からは気持ちの良い秋の空が下界を包んでくれることであろう。

   俳句  古戦場近くに住みて零余子飯
        濁酒呑みて信濃の歌唄ふ

 

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