おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

災害

2007-08-29 08:58:19 | Weblog
                   
、 子供の頃、母の里へ行くと祖母が、濃尾地震の恐ろしさを竹薮でさえ目の前がぱっくりと口が開いて断層が出来たとよく語ってくれた。
祖父が、危篤という知らせがはいり、父母がでかけて行ったので、初めて子供だけで夜をすごすことになった。
その晩、昭和二十年の年明け、夜中に大きな地震があった。二階で寝ていた四人姉妹が互いに声をかけあって、階段を下りる時、踊り場との継ぎ目が十センチもあいたので下迄落ちるのではないかとびっくりした。そんなころは戦争一色であったので新聞に大きく報道されることはなかったが、後に三河地震であったということが判った。
 昭和三十四年九月に中部地区は巨大な伊勢湾台風に見舞われた。
我が家でも、前年出産した、ばかりの赤ん坊の枕元、ほんの二、三十センチのところへ欄間のガラスが割れて落ちてきた。、座敷に雨が、じゃんじゃん入りこむので、未だ新しい畳だからと持ち上げたら、縁の下から床ごと水が吹上げ、泣くにもなけずに、舅達の部屋に固まってテレビに齧りついていた。
当然水は床まで浸水し、店舗や倉庫の商品の何ケースもが水につかった。
あとかたずけが大変でしばらくお風呂は名駅の旅行者用の湯にばかり行っていた。中川区から店へ通ってくる従業員の小母さんが幾日も出てこないので、夫が食料など持つて尋ねて行くとまだ屋根の上で生活していて、舟を漕いで行ったという話であった。
 今年も地震による災害が、全国各地で発生し新潟県の中越沖地震に至っては、柏崎地区の方など二度までも憂き目に遭われたと聞く。
災害の備えと言っても人様々であるが、先ずは住居と地域社会の安全対策(防災)が大切かと思う。家具の転倒防止にチエンをつけた。それと先年空き巣にはいられて被害にあったとき、家財保険から僅かばかりの賠償金が出たので、転ばぬ先の杖にとその保険に地震特約をセットした。

  俳句 * 絹雲のグラデーションや鳥渡る
      * 渡り鳥母国と同じ水尾を引く     



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

転倒事故

2007-08-20 16:24:51 | Weblog

 現代の乗り物は付随して事故がつきものである。

 十年以上前に、当時勤めていた保険会社の労働組合の恒例のレクレーションで、京都の映画村へ行ったことがある。

  分会長をしていた私は、集合場所へ早めに行った。そして二台のバスに全員が乗るのを確認し、さあ出発という時、ふと斜め後ろに我が家の孫くらいの子供が母親の前に立つているのを見た。子連でも良いと言う約束だったので、子供も大勢乗っていた。動き出せば母親が自分の膝の上に座らせるであろうから、無視すれば良かったものを、私自ら、一番前の「補助席」に移って子供を座らせて出発した。

  養老インターで十二台結集するには、東名高速入り口の渋滞を避けて一宮まで下を走りますとガイド嬢が言い千種区の清明山辺りを走っていた時のことである。

  私は朝買って網棚に置いていた週刊誌を取ろうと立ち上がったら、その瞬間ずるずると振り回されて、昇降口の段差にお尻から叩きつけられてしまった。そんな時ガイドは、立ちはだかって防がなければならないそうだがマニュアルを見て喋ることを練習している新人で、立ちはだかるどころか、私を避けて見ていた。

  すぐ立ち上がろうとしたが、腰が立たない。運転手が救急車を呼びましょうかと言ってくれたが、皆に迷惑がかかるからと、マイクを握って挨拶をし、付き添って降りてくれた人とで通りすがりのタクシーを拾って外科病院へ直行した。診察の結果は腰椎の複雑骨折ということで芋虫ほどにも動けない板つきの身になってしまった。

  知らせを聞いて夫と息子が、駆けつけてくれた。ショパンの葬送の曲でも聞いて死ななければならないほど、毎日見舞の花が届いた。運転手からは、大型で、車内事故を起こすと免許証の剥奪になるところを、警察を呼ぶような問題にされなかって有難うと言伝が来た。

  医者に聞くと三ヵ月の入院は必要だという。独立採算の給与体制で、そんなに休んでおれますか、お客さんにも不都合をかけますからと、起き上がれるようになるが早いか、痛いのを我慢してリハビリに、励み本当に二ヵ月で退院して、仕事に復帰したが、背が五センチも低くなってしまった。

     俳句 *  爽やかに二人で巡る美術館 

               * さんま焼く舅近衛の兵たりし

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争末期

2007-08-15 20:44:34 | Weblog

 8月15日,今日は第二次大戦の終戦記念日である。

 62年前のその日、私は、ラジオで重大放送があるからと畑にいる父母に知らせに走った。桐の木の木陰で夏葱の苗を整えていた父は一言「負けたか」と言った。

 名古屋の空襲で、姉と姪を亡くして、死骸を、裏返して探して歩いたが見つからなかったという壮絶な経験をした夫に比べて,田舎では本当に怖いめをしたのは、次に述べる日のことである.

 B29が頻繁に上空を飛ぶようになって、空襲警報も度々発令されるようになると、街中の電灯を消してひっそりしているだけでは、怖いばかりか、危ないと防空壕に再三逃げ込むようになり、名古屋が夜空を焦がして焼け、岐阜もえも言われぬ近さで紅蓮の炎をあげた。その次、各務原の川崎航空が、爆撃される時のことである。

「東海軍管区情報、敵機来襲、敵機来襲」のアナウンスに、居ても立っても居られぬ怖さに街中の人が少しでも、人家の無い所へと逃げ始めた。私の家でも乳母車に1歳の弟と4歳の妹を乗せ,その両側に6歳と8歳の妹が、つかまって歩き銘仙の標準服を着た母と私が、並んで押して林の近くまで来た時、5人の防空頭巾の結び目を確かめた母は、突然「お父さんは消防団長で、町内を守らんならんで、母さんは家をみに帰るわ。お姉ちゃんは皆をはぐらかさないように大人が行かれる方に行くんやよ」と言った。「お母さん爆弾に当たらんように行きゃあね」気丈な私は11歳であった。一瞬のできごとである。本当は、そんなのありいの心細さであった。

 B29の轟音は耳をつんざき生きた心地もしない。高射砲の照明が低空飛行を何機も浮かび上がらせ、異常な明るさに乳母車の二人は、わけも判らぬまま、興奮して、きゃっきゃっと、飛び上がって喜んだ。私の記憶はそこまでで、帰ったときの様子が、どうしても思い出せない。

 明けて次の日、町には焼夷弾ひとつ落とされていなかった。

 俳句 * 読経の音に負けまじと蝉しぐれ

    * 何事の不思議なけれどちちろ鳴く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆の用意

2007-08-10 20:09:17 | Weblog

 主人が初めての仏で、しきたりを云々する人も居なくて、盆も三回目ともなると、我が家流である。

 八月に入ると家の周りのフエンスの剪定をした。高い木は順番に高枝のこぎりで、枝打ちをしたし、仏壇の御調度は磨いたし、提灯は二対、息子が組み立てると言っている。お墓の花は年中絶やさないが、十三日には、霊を迎えに行き沢山お供えをしたところへ帰って来てもらう。

 十五日にはお経様をあげてもらうし、親戚や孫達には、来るものは拒まず式で参ってくれるのを待つだけである。

 私の子供の頃は曾祖母がとうもろこしの、髭を尻尾にして茄子の馬を作って南瓜や胡瓜と一緒に濡れ縁に置いたりしていた.白い芋がらの門火を燃やして送り迎えをしたものである。おはぎは、きりだめに、お寿司は、べにこにいっぱい作られていた。

 結婚しても三十年以上は夫や子供の瘤つきで、子供が付いてこなくなる迄よく実家に泊まったものである。

 息子も娘も近くに居るので泊まって行く事はない。増して今年は嫁の母様が七月に亡くなって初盆である。判っていても、私は幾日も前から夜具を干してふかふかにしている。

 お墓にいつも花を供えてくれる娘が、墓で、何を言うのかと思ったら「人って死なないね。生きてると思うわ」というので、「又、又、千の風もどきかね。そんなことを言っても、実態が無いがね」と私は言った。

 そうそう,息子が、未だ可哀想、可哀想と言ってお舎利様が仏壇にあるままである。何を迎えにいくのであろうか。

  俳句 * 捨てられず又虫干しの帯着物 

     * 生き御魂そのあれそれを諾ひぬ

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同窓会(その3)

2007-08-06 11:55:15 | Weblog

 高校3回生の、親しい者達で、その仲間の内の一人の軽井沢の会社の保養所で、久しぶりにゆっくりしようと言うことになり、つくつくぼうしが、鳴きたてる暑い日にこちらを発つた。

 岐阜迄バスが、迎えにきてくれて母校のある故里で二十余名になり、出発した。

 運転手さんが二十年前の人というのも、笑える。え、何でこの歳で小学生唱歌を、と思うのだが、幼稚園から一緒の方も居るのだから、仕方ないか。配られた譜面を見ながら「我は海の子」等何曲も歌ったり諏訪大社に寄って、茶店でところてんを啜ったりして、のんびり宿に着くと待ち兼ねた東京勢に将棋で捕まる男性が居たりした。

 宴会の初めに今年亡くなった二人にしばし黙祷を捧げた。企業戦士であった彼らに、私は心の中で「ああ玉盃に花受けて」と一高の寮歌を歌った。

 このごろでは、お酒の種類も選り取り見取りで、マイお酒に、わいわいがやがや、と、小泉さんを語ろうと誰かが言い、いやもう余生、ヨセーイと誰かが言った。何と百三十名の一割五分もが他界した。

 おむすび持って応援に行った野球の県大会のエースであったMさんが、Yさんに手を引かれている。脳梗塞で倒れたのらしい。この人と実に良く幹事役を勤めてくれていたKさんも昨日まで、腰痛でうなって寝ていたのだそうな。メンバーの手前それを隠して、バスから棒を出して垂れ下がっている木の枝を持ち上げて通路の確保をされている。もうぼちぼち同窓会も締めかなあ。

 白糸の滝や鬼押し出しで写真をとったりしたが、今回は白根山へは行かなかった。楽しかったのは、高原文庫へ行ったことである。立原道造の碑の後ろには、あざやかな緋の水引草が、堀辰雄の家は、暖炉が目立ち、野上弥生子のそれは瀟洒な外観であった。遠藤周作は、この中では亡くなったのが、近いせいか、とても書籍が多く有島武郎の自殺した部屋は、今は公開されてなくて、ロッジがカフエになっていた。ここで、お茶を頂いてしばらく寛いだ。

 三日間はあっけなく過ぎて、軽井沢銀座や、アウトレットでお買い物をして、故郷へ帰り、虫がすだく実家へ寄り一晩泊まって、次の日、日進へ帰って来た。

   二00八年八月    

  俳句* はらからと泳ぐ大川雲の峰

    * 夕焼けの色尽くるまで立ち尽くす

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同窓会(その2)

2007-08-01 08:54:12 | Weblog

 梅雨明けと土用の中日が同時にくるなんて、而も今日からは、もう8月、選挙も終わったが、その話はまずはお預け。

     本文          軽井沢の高校の同窓会にマイクロバスを仕立ててきた故郷勢と、東京方面のメンバーが、千野の駅で合流した時のことである。

 「何だお前どの顔さげて此処へ来た。くるなら借金返してからてのが筋だろう」

 「金より良いもので返すから」

 ことの顛末を知らなかったら、びっくりする会話が私の後ろの席で小声で交わされていた。怒られているSは町にたった一軒あったレストランの四男である。名士が良く出入りして居たが戦後二十年くらい経った時つぶれて今は無い。

 通知を出してもなかなか連絡がとれなかったというSは、友達の誰彼から、お金を百万円単位で借りているということなので、申し合わせてDが代弁したのではなかろうか。

 気をつけて見ていると折角此処に滞在しているのに、単独行動が目立つ。女性四人の私達の部屋で夜が更ける迄話していたりした。

 戦後食料の無かった時代に、彼のグループは、レストランの台所に随分世話になっていたらしい。「出世してるやつに還元しろといっているのだ」と、今更何のことかと思う。次の日X会社の重役のTが仕事の都合で一日早く切り上げ、成田空港へいくとき一人だけ見送りに、同乗して行ったのも、おかしなものであった。

 昔日の坊ちゃんの面影は無く、かと言って企業ゴロとか総会屋にしては今一貫録が無い。子も無いとのことである。

 女性ながら中学の校長になったNちゃんが「Sさん、ダンス教えてよ」と踊っているのは立派な友情である。私も広間から一人去り二人さりして、別荘主と三人だけが残った時、商売に失敗して難儀した過去を語ったりしてSを励ました。

 別れる時、バスに乗り込む私に、彼は明るい顔でしっかりと握手をしてきた。つと目をやると彼の肩越しの草むらに吾亦紅が咲いていた。吾亦紅なり!われも同級生なりと言うように。   1988年

 俳句 * 白糸の滝幾年の流れかな

    * 野辺山の木のふらここや風起こす

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする