おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

リハーサルの必要性

2009-05-26 11:21:31 | Weblog

 何と「夕刊サロン」の記者が、私のこの「おにゆりの苑」の取材に来ると言う。
 家の内も外も一生懸命掃除をしてタクシーで来た女性記者を迎えた。
 茶菓の用意の怠りもなかったが、何の目的で、何を、どう言う風にと言うことに考えが至らず名刺を出されたのに、つぶさに見ることもなくこちらのを渡す事は忘れてしまった。
 聞かれることにも素直に情熱のあるところを披瀝すべきであったが、見当はずれの四方山話をしていた。写真を撮るときは、鏡をのぞくくらいの余裕をもってちょっと待ってもらえば良かったのに、何枚も撮られる間中眼鏡をかけるのを忘れていた。
 「どこでされているのですか」と言われてキッチンのオルガンの上のパソコンを指差した。一人住まいなので、家中が書斎みたいで、その時の気分の赴くまま至るところがノートパソコンの仕事場であり得る。ある時は庭に向かって、ある時は背と手もとに電灯を、又ある時はやぐら炬燵でなどと言えば良かった。
 俳画を描く時は大きな食卓に画材一式を拡げて、などと言えば良かったと後になってマニュアルを思い描いている。
 二日前に知らせて来ているのにリハーサルをして置くべきであった。
 それにしても二、三行のことらしいが一時間半の滞在で何をどんな風に書いてくれるのであろうか。
 六月十三日頃の夕刊に載るそうであるであるが、眼鏡の無い顔の皺を一応女性らしく苦にしている。


  俳句 朝顔のたぐり寄せたきはかなさや
  

     飛騨路路来て探し当てたる朴葉鮓 

 

 

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ゴーギャン展を観た後で

2009-05-23 08:04:03 | Weblog

 池下の歯医者に居たら妹から携帯電話へメールが入った。
 ゴーギャン展を誘ってくれたのである。金山のボストン美術館へ行って異色の絵画と版画数点を観た。
 「我我はどこからきたのか、我我とは何か、我我はどこへ行くのか」と言う永遠のテーマを描いた日本では初めてのゴーギャン展とあって、場内にはストイックな雰囲気がただよっている。
 扁平な画風の陰影のつけかたはなどと模索しながら一渉り歩いて出口で妹にもう一回廻る?と聞いたらううんと首を横に振った。絵をやっている彼女にうんちくを聞くべきであった。
 お昼をしようと言うことになり、この間ござらっせ(長久手にある温泉)へ行った時のお返しに今日は私が御馳走するわと妹が言うので近くの「かに本家」へ行った。
 ここで私は嬉しいことに出くわした。いらっしゃいませと出迎えてくれたうちの一人が何と十一年前に四日市店にいた私の最後の仕事のお客様であった。
 一割引き券を持って部屋に挨拶にきてくれて
 「ひと回り小さくなられましたね」
 「そうでしょうよ貴方がそんなに立派になられたんだから、ここの店長さん?お子さんは」
 「小学四年で男の子です」
ああよかった結婚したんだ。
 「あの保険今も続けてますよ、良いのに入れていただいた(養 老保険)と思って」
 「もう一つの方は子供さんにお金がかからなくなったら小さくすれば良いからね」
 「あれっきり来なくなっちゃったんだもの」
 
「挨拶状は出しましたよ」
 「ごゆっくりして行ってください」
 妹と四方山話をしながら今更一昔前の保険のおばさんするなんてと若返った気分であった。
 ゴーギャンのポストカードは買ったし、先ほど入れたてで、ぎくしゃくしていた歯も心なしか苦にならなくて、心中は楽しかった。

  俳句 粽解く白か黒かの運試し 

     若竹のあられもなくて空乱す

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茶 摘 み の 季 節

2009-05-13 15:29:18 | Weblog

「八十八夜の別れ霜」と言うが、今年はいつまでも寒く桜も咲き始めから咲ききるまでが永かった。
 桜が終わった途端、あらゆる花が一斉に咲いてしまった。私の子供の頃は桜の次が菜の花だった。続いて蓮華草、水仙、金盞花、芍薬、牡丹、あやめ、からたち、卯の花などと続いたものである。
 今は手っ取り早く花屋で苗を買うせいか、住宅団地の中を歩くと、どの家もチューリップ、ポインセチア、カーネーション、マーガレット、スイトピー、薔薇などと百花繚乱である。
 その昔こぶしの花がぽあっと咲く頃、小学生の私は隣の字の分団の子と帰れるのが嬉しく、家からはちょっと遠い自分の家の茶畑へ帰宅したものである。
 母は大抵そこで伯母と手拭を姉さんかぶりにして、お茶の葉を摘んでいた。私はランドセルを木陰に置くと、妹たちが入れられて居る乳母車を押して、すぐそばのお寺の境内で、先ほど学校から一緒に帰った友達等と石蹴りや鬼ごっこをして夕方まで遊んで楽しくてしかたがなかった。
 茶摘はニ、三日で終わった。母と伯母は摘んだ葉を、せいろで何杯も蒸してむしろに空け、丹念に揉んでいた。揉み終えたお茶が蔵の前にずらりと陰干しされてその年の新茶ができる。しかし
もうその二人はこの世には居ない。
 今年松本であるOL時代の同期会の出欠を問い合わせた友達は、今が茶摘の最中で、八十歳にもなると三キロがせいぜいで、若い人は十キロも摘むと言っていた。
 「
製茶が大変ね」と言うと農協へ持って行けば加工してくれるからそれは大丈夫なのだそうな。
 戦争中小麦が採れると、製麺所へ預けて置いて、うどん何束とそれを取りに使いに出されていた事を思い出した。
 八十八夜とか、麦秋などと言う今は良い気候である。

 俳句 カーネーション白のみ活けて香を焚く

    手ぐすねを引きて雨間の淡竹折り

 

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津島の藤

2009-05-01 20:11:54 | Weblog

 ここ二、三日爽やかな五月晴れが続くのでゴールデンウィークのさきがけとばかり娘と津島の藤を観に行った。
 名鉄電車の普通でローカルな気分を味わいながら、津島の駅につくと、ウオーキングの催しもあるらしく、もらったパンフレットはそのコースのものだったとみえてそれに従って歩くと津島神社についた。
 三人抱えもありそうな幣のついた大銀杏の木を写真に撮った。尚一キロ程歩くと大きな池に出て人に従ってその畔を行くと、やっと天王川の藤棚にたどりついた。
 芳香の漂う藤棚の下で持参した弁当をひろげて、紫紫コールをする気分で幻想的な藤のすだれを楽しんだ。開いていない花房の一つ一つの花弁は、大切なものをくるんでいるような高貴な感じがする。紫式部と言う名の花があるけれどこちらが本元でしょうと言いたい。
 
けれども、十年以上前に来て瞼にやきついている情景とは様子が違うから、あれは甚目寺の藤(今は無いらしい)だったのか。
 娘に江南の藤はもっと長いよ地面から五十糎ほどと話していると、聞き咎めた隣に座っている人が、あそこも地面をコンクリートにしたので、昔の長さは望めないよと教えてくれた。
 もうひとつ堪能できた事は、毎年天王祭りの、蒔藁舟をテレビでみている現場が此処で、川と言っても今は川ではなくてその名残のこの池で船をしつらえるのだと、観光案内のボランテアの小父さんから聴き出したことである。
 川のとっかかりの野原に五、六艘の船が雨ざらしになっていた。
 
 家に帰りさっそくパソコンにカメラのカードを差し込んでみると、ピンクや白の藤も私までもが、行きました証明写真のように写っている。
 
重いカメラを肩に架けて行った甲斐があったと喜んだのも束の間、何としたことであろう。取り込めてないのにカードを消してしまった。さんざ探したけれども何処にもない。
 カメラのパソコン教室に通おうと、臍を噛んで悔しがることしきりである。

  俳句 葉桜や尋ねし町の影を踏む 

     鯉幟川面を払ひまた宙へ

 

 

 

 

 

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