おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

軌道修正

2007-06-29 06:39:54 | Weblog

 

 夜も働こう。新聞広告でみた一宮市のクラブへ清洲から自転車で走った。

 化粧品と雑貨の問屋を倒産してから、一家に押し寄せて来る敵は、毎月毎月お金であった。店舗を失った主人の商売は、お先真っ暗で、他に就職した私の事務員の給料は債権者会議に出た人以外への返済やら、爾後の始末やらで、焼け石に水で何の足しにもならない。

 源氏名が要ると言われて「瞳と言う名にします」と出た新入りは、ひっきりなしのもてようで「あなた前は名古屋なの?」とベテランホステスがやっかんだ。

 何も言わずに出て行って帰りの遅い女房を眠らずに待っていた夫の詮議と暴力で着ていたレースの上着が頑丈な見返しごとひきさかれた。

 それが怖くて二日目から行くことが出来ずロッカーに置いてきた小紋の着物は好みの柄に染めさせたものであったが、訳を言って電話で請求しても帯と共に戻っては来なかった。

 世間に迷惑をかけたら切腹と言う私の性分と、被った側の負けと開き直る商人の考え方の夫との違いであった。

 まかり間違えばその道に入って居たところを、首根っこを摑んで引き戻されたのである。はでな喧嘩だった割には、一生二人の間で、タブーな一件であり、夫に感謝している。

 1970年頃のことである。

 俳句 * しらじらと明けの速さや太宰読む

    * 夏座敷父の謡のこえ豊か

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地下鉄の老若

2007-06-24 19:27:12 | Weblog

 

 久屋通りから地下鉄桜通り線に乗った。梅雨の谷間の真夏のようなけだるい昼下がり、乗客はまばらであった。

 高岳で停車してドアが開くとチョコレート色のビニールのスポーツバックのような大きな鞄を、どさりとシートに下ろして六十がらみの中肉中背の小父さんが私の横へ乗ってきた。

 何かぶつくさ喋っている。ビールでも飲んでいるのか顔が少し赤い。斜め向かいの予備校生風の青年が、視線を合わせて「うるさい」と言った。かまわず独り言が続く。再び「うるさい」。席を立つた小父さんが、彼の前のつり革に両手を広げてつかまり何か言うか言わぬかに、さっと立ち上がった青年と、取っ組み合いになった。乗客は急いで次の車両に散って行く。

 私が思わず大声で「殴っちゃ駄目、叩いちゃ駄目」と言うのと小父さんが足蹴にされて倒れるのと同時だった。「よっぱらって、良い気分で喋ってるだけだから、知らん顔してたらいいの。言わせとけばいいの」座ったままの私は、頬の筋肉を少しでもにこやかにと意識しながら、こちらの端から真ん中の昇降口近くの青年に言った。

躰を横にねじって「知り合いなの」と聞いた。よせばいいのに彼は「泥棒の知り合いとみたな、親の顔が見たい」辻褄の合わないことを青年に、聞こえよがしに答えたがその目は泣いていた。

若者は今池で降りて悪びれた様子もなく、すたすたと歩いて行った。

  俳句 * 梅雨の街時間つぶしに書肆に入る

     * 下校児の蕗剥く母にまとひつく

 

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年金が大問題

2007-06-18 20:21:33 | Weblog

 美しい国、日本は列島中、次から次へと季節の花が咲く。

 そんな中、世は年金問題で大騒動である。社会保険庁の不手際で、宙に浮いた年金記録が五千万件、未入力件数が千四百三十万件もあると公表されたからである。

 私は娘の頃、勤めた会社では厚生課にいた。衛生管理者とか保険労務士とかの試験を、受けようとすると、妻子ある男性に立場をゆずるように言われた。仕事は結婚までの腰掛と考えられていた時代である。それまでに積んだ厚生年金は、多くの女性達のように脱退してしまった。今それがあると年間四十万円支給額が多いのだそうな。

 子供が大きくなって再び働くようになり、その会社へ出入りする労務士に五十歳までに十五年掛けた実績があれば、年金がでるよと聞き出していた。

 だからパートと言う勤め方はしなかった。

 最後に働いた会社は管理職の定年は六十営業職は六十五歳だったので、いくら薦められても年金のことを考えて管理職にはならず一匹狼の営業職で通した。

 主人が六十二歳の時、年金の手続に社会保険事務所に同行した。自営期間があったり、転職を重ねていて年数が不足だったので私から三年移行した。僅か半年ばかりの繋ぐべき国民年金があったのを二度手間になるのが嫌で黙殺して手続を完了して来てしまった。

 捨てずにしまってあった昭和四十四年度の記号番号もある国民年金手帳を見ながら、これもその五千万件のうちの一件なのだから、社会保険事務所へ郵送しようと思う。受給者だから関係ないと言わずに「厚生年金保険制度回顧録」を読んで見たいものである。ロングサイドなだけに下手な小説より面白いだろう。

 このようにあの世へ行ってしまっている人の分も多々あることと思われる。ちなみに私は主人の年金の恩典にはあずかっていない。

 死んだらお終いである。  

  俳句 *  野に立てば吾も華かや小蜂くる

      *  さわさわと草若葉にも風たちぬ

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六月 更衣(ころもがえ)

2007-06-13 14:39:07 | Weblog

 

 青田を風が撫で若葉青葉が薫る季節になったのに、歳をとるにつれて何でいつまでも、こんなに寒いのであろうか 今だに上下それぞれ、四枚か三枚づつも着ている。

 脱却しようと一念発起、人よりは遅れてのころもがえをすることにした。洋服箪笥、整理箪笥の中のものを幾つもの衣装箱のものと入れ替える。こんなに大変な事を春と秋、家族のいる時はその分までも、よくも行って来たものだと改めて思う。

 三年着ないものは捨てるべしと言いながら、その衣服にまつわる思い出に負けて又収める。桐箪笥の和服は、虫干しの時か慶弔事にしか、取り出さなくなった。上布の着物でお茶をたてて差し上げる人もいない

 皐月の花が、終わったので剪定をした。ごみ袋三つ大変と言ってはおられない。三月にシルバーさんを頼んだら二人来て半日の仕事で、喜んでいた税金の還付金が相殺になってしまった。

 我流が災いしてあじさいも咲かず、枇杷も去年は三キロもとれたのに、今年は小鳥が啄んでいく程度である。短冊やら額やら夏ものにかえて食器もガラスのものを少々出した。

 十四日の入梅前にようやくセーフ。そこでオールドファツションのドレスを着てパラソルを、さして栄にリサーチに行った。

 多少のひらひらは上着にあってもシルバー族は殆どがズボンである。まるで革命時代の中国みたいだ。

 衣服に関することで思い出すのは、小学五年の時先生に、二三日はおなじ洋服を着てこないと七面鳥のようで人格を疑うと教わった。そのような意識で大人になったが、ある時職場で二日続けて同じ洋服だと、「昨夜はお泊りだったんですか」という事になるんですよと若い人が教えてくれた。

 更衣も世につれ人につれてである。

  俳句 * フルーツをガラスの鉢に更衣

     * 街騒を聞く古寺や七変化

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私のカレー今昔

2007-06-08 19:41:12 | Weblog

 

 戦争中、五六月になって畑で玉葱や馬鈴薯ができると、旬の野菜を使った母のカレーは、子供達の大御馳走であった。
 母の秘密兵器は、ハウスだったかしら真黄色のカレーの粉で、横文字のレッテルが貼られた
赤い缶であった。大事そうに小麦粉と一緒に炒って水で延ばしていた記憶がある。

名古屋から隣村へ疎開してきている従兄弟の二人が泊まりにくると、しゃびしゃびながらコーヒーも付いた。食べ盛りの子供が六人お代りは当たり前で四皿も、食べたりした。配給はラードやサッカリンが来るだけだった。その時代の母の苦労はわかるようで解るものではない。
 結婚して子供を育てる昭和三十年代、ご町内にオリエンタルカレーの本舗があって、車体に広告が描かれ、スピーカーから曲を流した宣伝カーが出入りしていた。白い帽子のシエフの顔とカラフルな字
が印刷された銀紙風の袋に入った35円のカレー粉を良く買った。それと同時にテレビが普及し始めてアップの髪型の着物の女性のボンカレーのコマーシャルで、カレーは、全国的に不動のものになった。

 即席カレーの粉は、忙しい主婦の味方で私も牛乳を入れて作り方を工夫したりした。

食文化が発達して、カレーやラーメンなどの拘りは終わりの無いドラマのように美味しいレシピを追求するのが流行っている。

私はと言うと、早く出来れば良い、美味しければ良いとカレー粉の変遷も気にせず、気が付けば今は固形のものを使っている。レンジでチンするレトルトカレーもあるけれど、そのつど、二人分か三人分を楽しみながら作っている。表示してある量を忠実に守れば美味しく出来ることに気が付いた。

 ところが作り方として十皿分としてあるので、三人ならば、材料は0,3掛け計量するが、ルーには8ヶの仕切りである。総体に0,3掛けすれば良いのだけれど、切れば粉が出る。何で十個の型に流さないのであろうか。

 辛、中辛、甘などとこだわっている割には、かんじんの作り手の身になって考えていない。安売りしなければならない原因は、そんな些細な所にあるのじゃないのと言いたい気がする。

 俳句 はなも実も初夏の風にぞなりにけり

    まだひとつ思ひ出せざる日永かな

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その人の名は

2007-06-04 08:03:09 | Weblog

 

 四十五年来の無二の親友と別れた。
 風邪気味だからと、医者に処方してもらった薬を飲んだ夜から急に咳きがひどくなって、花粉症か、喘息か、肺炎かと、気をもんだ。
 タオルを熱してビニール袋に入れ温湿布にして、冷めると取り替えること、五回も六回も、それを胸の上に乗せて落ちないように、真直ぐ天井を向いて固まって寝ていた。
 夜になると、激しく咳き二晩そんな有様だった。

 別に冷ややかにされているとは思はなかった。


 子供に給食費を、持たせることを忘れても彼女との蜜月は、問屋稼業の店番を、冷やかしに来て以来果ては棺の中迄もと思っていたのに、あられもない格好で、咳き込む姿に向こうがあっけなく、私から手を引いた。
 腕にシールを貼ろうとガムを噛もうと、何でもありよと、許してくれていた私の親友の名前は、そう、「タバ子」であった。

缶入りのピースに始り、みどりや憩いのおばさんであったり、新生であったり、最後の十何年かはマイルドセブンの6番であった。先日旅行の折り免税店で買ってきたワンカートンが、所在なげに風邪の治った私を見つめている。

 俳句  * 五月闇寄る辺なき身を包みける

     * イヤリング光れる程の五月闇

 

 

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