おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

言いたい放題

2019-01-31 12:32:23 | Weblog

 玉鷲が優勝してテレビの相撲画面が国会中継に変わった。
 それを聞いていても云々する技量はないが、小泉政権の折、今の阿部さんが時々舌足らずに物を言う有様を「この人は相応の立場になれば、もっと発言出来る人であろう」と思って見ていた。
 あれから幾星霜総理大臣になられてアベノミクスや領土問題、この夏の参議院選情勢を岸田政調会長との意見交換の様子など、自公連立20年の景気、円安、金融緩和の業績、回復宣言など、政治の事は私には分からないが、憲法改正、日米同盟のゆらぎ、ロシアとの領土問題など、なにを優先するかから始まっていろいろな難問題,聞いているだけで気が狂いそうなこれらのことを、例のパホーマンスで格好良く(悪くっかもしれない)弁舌巧みに早口で質問があればそれに応じて解答をして居られる。
 どうだろう、男前も人となりも、各国の為政者にひけを取らないなりふりではあるまいか。
 かといってタレントではないのだからこうした諸問題を国民がそれ相応にパーセンテージを下げないように事を運んでもらいたいものであると衆議院本会議場のさわやかな答弁を聞きながら思ったことである。
 ちなみに今日介護保険のアップした通知のハガキが私のところに届いた。

       俳句   ほうれんそうバイト学生茹ですぎる

 

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新  年

2019-01-20 19:15:14 | Weblog

 一日は日文へタクシーでお参りに行った。
 朝からニ回目の会場は五百人くらいで、勤行が終わるとピアノとフルートの合奏もあって、淑気に満ちていた。
             新年会(一)
 二日は我が家の新年会であった。海外旅行をしていてこられない夫婦など、除くと大人十人、ちびが、四人予約してをいた日進市「藤昌」へ一時に集まった。
 行きがけの車の中で息子に「今日はしきってよ」と言うと「嫌だあんたが遣れば良い」とのこと。「新年おめでとう。今年も頑張りましょう」と乾杯をして新年会が始まった。
 何としてもこちらの曾孫二人栃木県からやって来た曾孫二人と子供は可愛いい。みんなの人気者である。話もそれぞれにはずみ、お品書きを見なかったが次々と料理が運ばれ、やがてデザートの時間になろうとしたとき私が立って外へ行こうとしたしたとき娘が「どこへいくの」と聞いてくれたのに返事をせずに、店の外へ出た男の孫を追って私も出た。この中でただ一人煙草を吸う孫に手のひらを返すと一本くれた。火をつけると、「今日は美味しくないな」と思い自分の席に戻った。気ずいた時は、(二三分のことであろうが、気を失って食べたものを吐いたそうである。寝かせて口をぬぐっていてくれる、隣に居た娘に「覚えがないで しょう」と言われて心外であった。
 気がつくと救急車が来ていて私を乗せようとする。もっと強行に拒否すれば良かったのに愛知医大まで運ばれた。何度も「気分は?」と聞かれるので「爽快です」と答えていた。結局なんでもなかったので、心電図と採血で帰ってきたが、息子一家の車の中で、「横着な婆さん!」とさんざんな言われようで、心外な新年会であった。
              新年会(二)
 大人しくしていたが八日私の主宰する句会の新年会が例年のように「ヤジロベー」であった。「去年今年」という席題もでて、楽しい句会であったが、その席でTさんが年末に頭がふかっとして、家族に言われて休日診療へМRIをとりに行かされたと話ていた。
 自分のことは面目なくて言えなかったが、八十代を過ぎると、それ相応の関所はあるのだなあと思った。つつましくしなければ ・・・
              新年会(三)
 月末の二十七日に毎年続いている「もめん」の「新年会」が栄の「梅の花」である。去年二人なくなったので、エッセーは解散したが、意思の疎通がないとよけい集まりたいのだとみえる。行かなくちゃ。

           俳句  年号の変わりにまろき注連飾る

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岩崎の御嶽さん

2019-01-10 15:24:13 | Weblog
「私って貴女の日記帳がわり?」と言うほど毎日その日の事を、報告してくる友達がある。 昨日は「車で乗せていってもらって岩崎の御嶽山へはじめていってきた」との事。お互い南と北ではあるが、この御嶽さんのふもとで暮らしているのに、「ええ!」と驚いた。 私の場合山向こうの御岳台団地や、こばやし団地へ行くのに少しでも近道をと自転車や歩きでこの山を超えて行ったものである。<御嶽山は、岩崎の北部で名古屋市名東区と境をなして、高さは130メートルから30メートルの丘稜山地である。松、ナラ、クヌギ、ハンの木、竹などの雑木がしげっている。
 この地に40年も住んでいると宅地開発が盛んで、地形もずいぶん変わってきてしまった。春には柳がや鼠色のやわらかな蕾をつけると子供達と山を散策しながら、それを折ってきて、花瓶にいけたものである。滝もあって、子供たちには格好な遊び場であった。 祭りには「火渡り神事」を見たりした。宗教的な深い史実は知らないが1860年御嶽講の内、心願講に属する明確行者(名古屋市古出来町、丹羽宇兵衛)と明心行者(名古屋市門前町、倉知茂兵衛)によって木曽の御嶽大神が勧誘されたことに始まる。万延元年両行者が、西国三十三ヶ所霊場参拝の途次、御嶽講の講祖覚明行者が、現われ,[尾張国愛知郡岩崎村に竹の山という霊山あり、この山に御嶽大権現を勧誘すべし]」とのお告げを受けた。帰国して直ちにこの地に北新田の稲吉源右衛門、岩崎の井上政右衛門・古伯行者と相談、岩崎村の賛同を得た上で,大応寺二十一世願誉賢瑞の助力を得て地頭渡辺半蔵家・寺社奉行所・水野代官所などの裁可も得て勧請した。」と昭和60年に編纂された岩崎誌にはある。
今、信仰への考えが大きく変化して神道十三派の一御嶽山を宗敬する山岳信仰岩崎御嶽講は神社でも寺でもない、御嶽信仰は先達がいなくなってすたっている。私が十年間も町内の役員をしていた最初の頃は当番で筍を刻んだり祭事の御飯炊きをしたものである。
    
          まだ五年生きると決めて日記買ふ
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