七十八歳で、実家の弟が亡くなった。嫁いで来ているのに、今更ながら心の拠り所であったことに
きずいた。
その昔、父が死んで病院から自宅まで、搬送したのが今日(昼過ぎ安倍首相が撃たれた)亡くなった弟で
免許を取って最初の運転であった。大学生であったようにおもう。
まだ母が五十歳で、六人の子供達はやりたいことをやっていた。
上の三人は結婚していたが、下の三人はそののち一家を築いた。
五人目のこの弟が蔵や、納戸、離れ、等はそのままにして、120坪の母屋で地場産業の刃物「○○ 利器」を立ち上げて自営して来て爾来七十八歳まで
五十年程もひたすら真面目にやってきた。途中一人息子に歯医者を開業させ男の孫も二人いて、
やれやれと言う処であった。
私が思い出すのは戦争末期に生まれた子を、主を兵隊に取られている町内の何軒かに遠慮して宮参りに
十一歳の私に羽二重の着物を着た赤ちゃんを抱かせて首に被いの紐を結んで一人で行かせた事。鯉のぼりを
毎年上げていたことや、自転車の前に乗せて遊んでいたこと、幼稚園の入園式で「お名前は」と
聞かれると「ぼっちゃん」と言ったと家中で大笑いしたことである。
私が名古屋に嫁いでからは下の弟と二人よく出かけて来て夫に中日球場や動物園へ連れて行って
もらったりしていたことなどである。
当時、雑貨問屋をしていた私に「俺は国内販売はやらん」と言っていたのに、時よ時節で貿易が
出来なくなったら無念さもあったであろうが、終生商売にたずさわった。
訃報に接し、息子と二人駆けつけて葬儀に参列してきたが、16代目当主をやりあげた顔は立派できれいであった。
生あるものは必ず滅ぶと言えども、とても悲しいことである。
コロナ禍なので家族葬であった。がっかりと気落ちしてしまった。
この上は冥福を祈って線香を捧げるのみである。 合掌
俳句 坦々と済ます湯灌や夏衣