おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

新川・清須

2022-12-03 13:13:23 | Weblog


nt-size:24px;">

 「行きたい所があったら乗せて行くよ」と娘、
 「方々へ行ったから、もう行くところが無いわ」と私
 「あった、あった、清須城を見に行きたい」と言うと今日の運びとなった。
六十年程前に、営業していた家は、新幹線が通るので、駅西を再開発しようとの市の計画で立ち退きに
あった。引っ越しの手伝いに来た岐阜県に住む父が夕飯の時、
 「家を建てて越すくらいでないとね」と私に言った。
町で何番目と言う程の素封家の父からしたら考えられない事であったのであろう。
それから住んだ清須の三年間は今から思えば大変な時であった。
 新学期まではと今迄住んでいた中村の小学校へ行く子供をバス停に送ったある日、その前の「キリンビール」
のパート募集の張り紙に、ふいと寄ってみると採用になった。椅子に掛けて前をコンベアーで
流れて来るビール瓶の選択をして悪いのを取り出す選瓶の仕事であった。休憩時間は正社員の
方と卓球をしたりして楽しい職場であったのに、半年交代で会社は二度目は使はなかった。
 その折の同僚の紹介で愛知時計や金門の部品を造る製作会社の事務員として三年ばかり働いた。
ここから万博に行った覚えである。お城はまだ建っていなかった。
 思えば、日進市に定住するようになって半世紀あまり一度も訪れた事がない。
当日心躍らせて、娘夫婦と妊娠十ケ月目の孫との四人で同乗して行った。高速道路を走れば早い
もので、一時間程で着いてしまった。ここがよく使ったうどんや、医者、橋などと説明してくれる
が、今浦島もいいところで私の頭に描かれている田舎町とは全く違ってごたごたした大きな町である。
 キリンビールの見学もセットしておいてくれたらしく、当日八人の若いグループと私達四人の観客
の十二人をマニュアル通り丁寧に案内してくれた。終わりはビールの試飲で、柿の種のおつまみも
出た。その二階から西北を眺めると、門のあたりに僅か昔日の名残が、あった。それにしても広い場所
を獲得して大きくなったものよ。西の塀を南へ回ると小川に添って我が家があつたのに、今は会社の敷
地内である。「さがみ」で昼食をしてさあこれからが斜めの草の囲いを子供達が滑って喜んでいた本番の清須城である。
先年彼らと犬山城へ行った時には急な階段でも上まで登れたが、今回は駄目。
下で待っていると言ったら取りやめになってしまった。
 私1人が内心濃尾平野を俯瞰してみたいと思っていたのらしい。
それでも正面には朱塗りの橋が掛かっていたり、空に天守閣を見たり、紅葉を背に並んで写真を撮った
り、もともとは徳川家康が清須越しをしたと言う史実の街で、満足、満足の一日であった。

     俳句  冬カメラまだかとブルーインパレス
   
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日進市医療健診 | トップ |  ひ 孫 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事