おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

終 結 宣 言  

2016-04-25 05:59:42 | Weblog

 小学校の同窓会があった。
 栄オアシスからバスで行く予定をしていたら、息子が乗せて行ってやると言う。二時間かかるところを半分の時間で着いたは良いが、直ぐに判ると思っていた料亭が判らず右往左往した。
 始まってみると昭和十四年に八十三名で入学した同窓生の出席率は、何と当日二名のキャンセルがあり十三名きりであった。
 宴たけなわになると物言いや性格は皆昔のままで、小学生に帰ったようで懐かしかった。 
 物故者は五十%を上周り転居不明も五名もなので、もう町内別に幹事を務めてやって行くのは辞めようと余剰金の分配として名物の「孫六せんべい」を一箱づつ配ってくれた。
  振り返れば入学当初は筆記具は石筆板であった。二年生になると、雑記帳、消しゴム、鉛筆、セルロイドの下敷きを学校の並びの文房具屋で購入した。
 昭和十六年十二月八日、初等科三年(尋常が変わって)の時太平洋戦争が始まり、一年も経つと、藁草履を履き防空頭巾を被って登校をしていた。
 田原村に軍用施設が作られるため、西校舎は陸軍の兵隊が宿舎として使い学校の近くの美貴ちゃんの(今日私の隣に白大島を着て腰掛けていた)家は軍人数人が住み家族は離れの一室で生活していた。
 ズック靴は配給で食料事情も悪くなる一方で津保川の河川敷を雪の降る日に青年団と一緒になって開墾したり、かちかちの運動場を耕して麦や芋を作って供出し食料増産の一助としたりして勉強の出来る状態ではなかった。大平賀の山の中腹から道まで背板に薪束をしょって運んだ。田植、蝗捕り、桑の木の皮剥きなどをする中で二十%ほどは中等学校の受験に兆戦した。 
 唯一卒業式のできなかった年度の生徒であった。高等科の二名は義勇軍に志願して行った。昭和二十年八月十五日終戦となり村は二分され、それぞれ隣接の町村に合併されて事実上富岡小学校は廃校となった。
 それでもあの時の同級生は出来なかった修学旅行をしたりして仲良く七十年余を時代の変化と共に歩んできた。今後も一つずつ夢を抱いて進みましょうと,頭数の多かった私達の町内の幹事役からの同窓会終結宣言となった。

   俳句   柿若葉ほうはいとしてクラス会

 

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  転  倒

2016-04-12 16:57:43 | Weblog

  後輩のAさんが「風呂にいかない?」と誘いにきてくれた。このブログを立ち上げてこちらいつもこの呼び名で通しているが、勤めをやめて一七年も経っているし、我が娘と歳も変わらぬ程であってみれば、そろそろ後輩のの一言はカットすべきである。
  車を下りて来る時顔をみるとお岩のような顔で(と言ってもお岩の顔は知らないが)額から下へ内出血の何本かの跡が垂れ下がっているのに吃驚して「どうしたの」と聞いた。
 買い物をし終わって、カートの下の段にもう一つ一〇キロ入りの米の袋を乗せたとたんに車もろともひっくりかえって打ったとのことである。
 二、三日経つとすっかり出血の跡はひいていた。
 それがおお事だと思って居たのに、先週ゲートボールに行くと九六歳のkさんが(女性)やはり買い物のカートを押していて転んで大腿骨の骨折をしたとのこと。すわ一大事と次の日О病院へ見舞いに行ったら大人しく布団に治まっていた。
 この歳でもどこも悪いところがなくて、シルバー人材へも登録してあるくらいの人なのに、しばらくは絶対絶命である。
 「三ヶ月も入院だって」と声にも張り合いがない。
 勇壮な半田の祭りを毎年孫が迎えに来るのを楽しみにしておられたのに・・・
 差し当たって四月一八日の市の例会に岩崎チームはメンバーが足りなくて困ったことになった。
 世間では今やパターゴルフが盛んで、ゲートボールは人が減る一方である。個人プレーよりチーム一丸となって、キャプテンの策略に従って一喜一憂する共同体の方が面白いと思うのだけれど、人それぞれである。
 それにしても三ヶ月は長いなあ。彼女のゲートボールのキャリアは三十年である。

    俳句  辛夷咲く故郷恋し帰らんか

 

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  花  見

2016-04-03 16:00:12 | Weblog

 こう見えて見掛けによらず、「待ち」のほうがウエイトを占める性分なので、人生どちらが良かったかは別として今年の「花見」は能動的に自分で出かけることにした。
 31日Kさんに「あなた今お花見中?」と電話をすると、行くはずの人との取り付けの失敗を連綿と話し出したので「良かったらくるりんバスでいらっしゃい。ロータリーで待っているわ」と言うと二つ返事でやってきた。たわわに広がっている白い幕のような桜に、いろいろな鳥が喜んで出たり入ったりしている。
 桜も意志があるみたいに学院の校門近くは薄紅色めいたみずみずしい白の満開で、中の方は七分咲きである 。
 先ずゲストルームでお昼をしたが、お花見弁当が売り切れでランチのラーメンだけで、婆さん二人はお腹一杯なので、Kさんがパックをもらってくれてかしわのから揚げとチャーハンは手提げに収まった。
 リポビタンとお菓子が重いというので座禅堂まで行きたかったが、途中のベンチでおしゃべりをした。
 彼女が一緒に住んでいる娘さんのお婿さんが此の学校出だと言うのに初めて来たと何度も何度も景色や桜に感激していた。
 おかげで私は毎年誰かときている。いちばんお骨折りいただいていたFさんは亡くなったし女性のMさんは杖をついてももうこられない。
 此処を出て岩崎城や岩崎川まで行ったことや、古戦場まで行ったことが懐かしい。丁度帰りのバスがおあつらえのように来たので見送った。
 次の日はゲートボールの最中に雨がきたので、ほうほうのていで帰った。 
 三日の土曜日「ござらっせ」の美容院へ予約があるからとバス停へ行くと年度替りでバスの時間が変わっていた。難儀をして行った帰り後輩の青ちゃんが迎えにきてくれて、尾張旭市の城山公園へ花見に連れて行ってくれた。
 ここでは前日のKさんのように私が感激して展望台をぐるりと巡って都会よりも清明な気に満ちていると思える桜や遠景を堪能した。愛知医大のような池も中州を伴って二つが見えた。
 今日は岩崎城と長久手古戦場との誘いがあったが、曇り空なので遠慮をした。花曇り等と言う風情のある言葉もあるが、やはり桜は曇りの無い青空にこそ映える。

   俳句   四月馬鹿か変わっておりぬバス時間

コメント (2)
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