娘の嫁ぎ先の母様が九拾二歳で亡くなった。
家族葬だから来なくても良いとのことであったが、出かけることにした。やらずの雨か朝から大降りの雨であった。
孫夫婦が迎えにきてくれて、私は常用饅頭を、彼等は棺に入れたい写真の印刷で二、三の店へ寄りながら、天白の葬儀会場へついた。
母様は、精華会の理事で、藤が丘や五色園やら五ヶ所程教室を持って習字を教えておられた。日進の市民会館や、ツインカムで定期的に行われる展覧会をよく観に行った。「方寸会」と銘名された塾の旅行に奈良へ同行して東大寺や、鹿の公園や、古梅園(墨の出来るところ)など、見てきたものである。
思い出せば娘達の結婚式の折、仲人さんが外国へ転勤になったので、急遽その方の紹介の仲人さんの家へ母様の運転で豊田市までいった折、その家の向かいが、私の幼稚園から高校を卒業するまで一緒の親友が嫁いだ向かいの家で驚いたものであった。
新聞社の特派員であったり編集局次長であったりした長男が、四十八歳の若さで亡くなった時には私達夫婦も社内葬の東京まで出かけたものである。
木鐸の死にも、けなげに耐えて凛然と生きられたのは、葬儀場に弔らわれた写真にも現れている。位牌には「久遠」と銘名してあった。
御主人を送ってから自分も身体をこわされて此処二、三年は施設と住いを行ったり来たりして居られた。
家族葬で香典をとられないので、子供一同とか孫一同とかの並びに東京から駆けつけた義姉さんと並べて花をたむけてもらった。
八事の火葬場へ車を連ねて行って骨拾いやら、初七日のお勤めをすませ、お時をいただいて、永の別れをしてきたが、こうして縁者を何人送ったことであろうか。順番では次は私の番でありそうな・・・・
俳句 弔いて遺作の軸や冬座敷