おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

近親者の葬儀

2019-10-29 16:54:03 | Weblog

 娘の嫁ぎ先の母様が九拾二で亡くなった。
 家族葬だから来なくても良いとのことであったが、出かけることにした。やらずの雨か朝から大降りの雨であった。
孫夫婦が迎えにきてくれて、私は常用饅頭を、彼等は棺に入れたい写真の印刷で二、三の店へ寄りながら、天白の葬儀会場へついた。
 母様は、精華会の理事で、藤が丘や五色園やら五ヶ所程教室を持って習字を教えておられた。日進の市民会館や、ツインカムで定期的に行われる展覧会をよく観に行った。「方寸会」と銘名された塾の旅行に奈良へ同行して東大寺や、鹿の公園や、古梅園(墨の出来るところ)など、見てきたものである。
 思い出せば娘達の結婚式の折、仲人さんが外国へ転勤になったので、急遽その方の紹介の仲人さんの家へ母様の運転で豊田市までいった折、その家の向かいが、私の幼稚園から高校を卒業するまで一緒の親友が嫁いだ向かいの家で驚いたものであった。
 新聞社の特派員であったり編集局次長であったりした長男が、四十八歳の若さで亡くなった時には私達夫婦も社内葬の東京まで出かけたものである。
 木鐸の死にも、けなげに耐えて凛然と生きられたのは、葬儀場に弔らわれた写真にも現れている。位牌には「久遠」と銘名してあった。

 御主人を送ってから自分も身体をこわされて此処二、三年は施設と住いを行ったり来たりして居られた。

 家族葬で香典をとられないので、子供一同とか孫一同とかの並びに東京から駆けつけた義姉さんと並べて花をたむけてもらった。
八事の火葬場へ車を連ねて行って骨拾いやら、初七日のお勤めをすませ、お時をいただいて、永の別れをしてきたが、こうして縁者を何人送ったことであろうか。順番では次は私の番でありそうな・・・・

        俳句  弔いて遺作の軸や冬座敷

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明 治 村

2019-10-16 15:35:48 | Weblog
 この秋の老人会の旅行は台風明けの10月15日明治村であった。
 市が回してくれた2台の車は空き空きであった。今までにもう何回も行って居るからと言う理由で参加者が少なかったでのであろう.
私もこれで5回目くらいであるが、同窓会とか、OB会とか犬山ホテルで宿泊明けとか、名駅で集合とかで、訪れるのは大層なものに思っていたが、今日こうして、日進から東名へ入ったり中央道を利用したりすると、何のことはない9時すぎに公民館を出発したのに10時には、もう着いてしまった。
 私が実家へ行く時に通るリトルワールドの看板を見て入鹿池の左、ボート貸し出しの幟をやりすごして北上すると(私が実家へいくときは右へ行く)こんなに近かったのである。そう言えば戦争で卒業式も、修学旅行も無かった私達の戦後初めての旅行は、トラックの荷台に乗ってこの入鹿池へ来てボートを漕いだものである。広い池を北西に漕ぐと明治村の端くれがのぞいていた。
 最初に明治村を訪れたときは、若かったのと時代の役を終えた建物が珍しかったのとでよく観察をして歩いたものである。俳句も「秋暑し文(あや)の生まれし露伴の居」などと我ながら納得と言う句が詠めたものだ。六年ほど前のOB会ではもう使われなくなった重要文化財のリング精紡機が入っている機械館へ案内してもらった。 ところが今回は、同い年の三人が500円のチケットを買って持っておれば何度でも場内を走るバスに乗つて行動出来たことで、帝國ホテルでコーヒータイムを持ち、少し歩いたところのレストランで早々とオムライスの昼食をとってゆっくりし、鯉に餌などやって、土産物屋で名物のげんこつなどを買って3時の集合場所で皆を待ち4時にはもう帰って来れたのであった。 良く歩いた人たちは汗もかき、満足気な爽やかな顔をしていた。「 旧庁舎雲一つなき秋の空 」 くらいしか口をついて出てこなくてつくづく齢をとることの悲哀を感じた事であった。
   俳句  明治村昭和平成遠くなり





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