おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

ブログこの一年を本にした

2008-04-24 02:35:48 | Weblog

 「おにゆりの苑」ブログこの1年の冊子が、出来上った。

 本にする事に安易に飛びついたら、結構大変であった。ブログからメモ帳へメモ帳から、ワードのページ設定をしたA5へ移動してメモリーに読ませる。地色がついて来てしまったり、何故か行間が思うようにならなかったり、絵が逆さまに入ったり、校正もわんさとあり、而もお世話くださるMさんのメモリーとこちらのそれとが、合致しなかったりでゲラ刷りのようなことばかりしていて、正直いつ果てるかと思った。

 3月4月と季節は移ろい花見も、ろくにせずに、家庭用の印刷機では、1ページ目を刷って裏返して2ページ目を刷ると言うテンポなので、遅々として進まず刷れば刷ったで、背の糊着けが大変で、とうとうMさんに「餅は餅屋、業者に頼めべば良かったわ」と毒づいたりした。そうこうしている内に1度に3部ずつ失敗しないように出来るようになり一気に加速した。

 背の糊着けを、一手に引き受けて、その間怒りもせずに、諭すように完成の運びに持って行ってくだすったMさんは、知る人ぞ知る日進市の自分史同好会の会長さんである。御かげ様でした。

 一応目安の16冊は完成させて、嬉しい事に1冊は図書館の新刊書のコ-ナーに並んだ。民生委員の○○さんが、市長に見せるからと言われるので、もう無い無いと言ったけれどこれは何とかせねばなるまい。

 出版記念パーテイとか言って100円ビールを一人で飲んだ。

俳句 * 満面に笑み浮かべ来る春日傘

   * 松の芯そろひて天を目指しをり

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竹の子堀り

2008-04-13 08:39:34 | Weblog

 前日から約束してあったHさんに、これから家を出るよと連絡して、どちらからも同じくらいの距離の所にある薮へ出かけた。自転車の前籠に鍬の頭部分を入れて、軒並み家が建ってしまった早朝の町を、ペタルを踏んだ。

 六年前句友のHさんが誘ってくれてから、ある年は夫を亡くして、そんな気にはなれずに止め、又その次には彼女が息子さんを亡くして取り止めと、此れで4回目である。

 公共の土地で、不文律に解放しているところである。8時前で早いと思っていたら、つるはしを片手にもった男性が、けっこう沢山入ったビニール袋を提げてこちらに向かって下りてくる。「待てずにみんなが取って行くので、からきし無いわ」が挨拶だった。

 ほんの2センチくらい頭の先を出しているのを、見つけて掘るのである。一つ掘ったら次を探して歩きまわる私と違ってHさんは、動かずに笹の葉を、はだけては、次のを見つけてをられる、八十三歳の落ち着いた方である。それを見ていたら一つあると横か、縦か筋になってあることがわかった。一時間位居て剥いたら皮ばかりのようなのを九つ(本といえないのが、悲しい)採った。

 37年間実家から、毎年筍を送って来ていたが、薮の管理が大変で売ったらしい。通りに面した唐傘屋がこの薮を裏に控えて、材料に竹は伐ってくれるし、何坪かは切開いて番傘や、じゃのめ傘の干し場になっていた。10センチくらい伸びてから慌てて母か私が、掘ってセメント袋に入れて一輪車で運んだりしたことを思い出していた。

 Hさんが、良い運動になりましたと言ってカートの袋から、ドリンクをだしてくれたので二人でそれを飲みながら、来年を約して、ベテランの句で

 ○ 筍にとどめの鍬の傷となる と言われるので、

 ○ 筍や最後の一撃とどめさす と言って笑った。

 

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その後行ってない高遠の、花見

2008-04-02 07:36:51 | Weblog

 桜の時季になると思い出すことがある。

 一番下の妹から、高遠の桜を観に行こうと誘いがかかり、その上の妹も誘って女性は他に二人、男性五人は、全く知らない人ばかりの中に入ってレンタカーで出かけた。仕切ったのは千種区にあった薬湯の番台の女性のAさんである。薬湯がらみの人達で、老人クラブの会長さんとか、庭師さんとか、会社を、定年退職した方とかで、私達三人姉妹も、常日頃薬湯を、だべりの場所にしていた。栄にある会社の立体駐車場係員のOさんが、運転をしていった。

 50代後半の私は絵島、生島の血の色に咲くといわれる高遠の桜が観られるなら知らないグループでもいいわと言うような、軽い乗りであった。長い道中も退屈せずに、昼には見事満開に咲いた赤い桜が拡がる下を人、人、人で埋めつくす高遠城址に着いた。茣蓙を敷いて車からバーベキュ-セットや、食品の数々が下ろされる。中でも、庭師の山ちゃん手造りの三段重は鮑や雲丹まで入った豪華版であった。何せ、それらを仕入れるのに何処其処まで行って来たなどと説明していた。ビールを沢山空けて、そんなこんなも上の空で聞き、カラオケ迄セットして、飲めや唄えの宴会になり、気づくとメンバー以外の人も居たりした。一人その場を抜けて楼閣に登って、まだ花びらを散らさない花の波を見渡した。

 その晩は望月泊りであったが、今のように、カーナビなど無い時代だったのでOさんが道を間違えて軽井沢をかすめたのか、瀟洒なロッジが、点在する山越えをしてしまい心配と、心細さに、名古屋まで帰れるほど走ったとか言わなくても良い意地悪を言う男性もいた。暮れなずむ気配の中をやっと宿に着いた。着いてみて私は、そこが先年会社の旅行できた宿だと気づいた。その折、庭の小屋の孔雀が、得意そうに羽根を広げてモデル歩きしたことを思い出したからである。

 翌日は、美ヶ原へ寄り昼神温泉で、休憩し足助廻りで帰ったが、風の噂に、誰それさんが亡くなったよと聞くのが、今になれば、男性の殆どなので、ノアの箱舟めいたミステリアスな旅であったように思えるのである。      

 俳句 * 養花天牧の羊の昼寝かな

    * 越し方や花の波濃くまた薄く

 

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