おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

若葉が薫るというのに

2015-04-27 07:57:31 | Weblog

 本家の私より二歳年下の義妹がなくなった。
 私たち夫婦が独立して出てしまった後、子供の無い兄の後を第一番頭さんと結婚して子供や、孫の代までも問屋の暖簾を一生守ってくれた。私たちには平身低頭の人であった。
 従ってお葬式もそれ相応に立派にされ残った夫の会長が痛ましい
脳内出血で隣に住んでいる娘が、朝早くお起しにきたら廊下に倒れて、事切れていたという。入院していた夫が退院してくるはずの日であったとか。
 私達も娘と息子と通夜にかけつけた。豊明のティアで告別式は翌日十時半であった。義妹の四人姉妹はこの一年近くの間にばたばたと三人が鬼籍に入られ、一人残った九十一歳の山口町の義姉が葬式の最中にこみあげる涙の嗚咽が声になって咳き上げ身体のふるえが止まらなくなって、筋がつり、列席していた甥たちが車椅子に掛けさせた。
 祭壇を飾っている本人の写真はおそらく一番良い顔をしている最近の笑顔であろう。焼き場はいつも慣れている八事ではなくて会社と住まいのある刈谷であった。
 親戚はこんな時がコミニケーションの場だとばかり骨拾い迄の間をおしゃべりをして待っていた。。
私も支店であった頃、毎日車で配達に来ていた面影は二十歳のままで歳をとった二人の男性に会い今更ながら年月の流れを想った。
 今度は私か山口町だなあと「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にはあらず」と感慨深く会場を飾った花束を抱いて帰宅の途についた。

    俳句    嗚咽漏る義妹の葬の卯月かな 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腰 痛 後 日 譚

2015-04-19 22:21:00 | Weblog

あの痛みは何だったのでしょう。四、五日私を悩ませた腰痛はアリナミンEXを一瓶飲んでしまった頃からすっかり治ってしまった。
予定をしていたので、雨の降らない日に整形へ行ってレントゲンを撮ると落としたものを拾って背を起こす時の痛い痛いとの悲鳴に近い感じはすっかりなくなってしまっていた。                                                                                                    
「ロキソニン出しておきますからね」と胃の薬とセットで処方してくれ十七日にも一回来るようにと言われた。嬉しくなってその先のゲートボール場まで、自転車で走った。天気予報が昼頃から雨                        になると  いっていたせいでキャプテンだけがコートの整備をしていた。
市の大会も
雨で二回も中止になってしまった。菜種梅雨なのか、今年の四月は雨の日が多い。
こんな体になってしまったのかとブログにのせたのが恥ずかしい。メールで「マッケンジー体操」のパンフを送ってくれた方がありクリックして印刷したら五枚の美しい指南書が出てきたので「必携します」と返信した。
松坂屋の院展が後二日になってしまったので土曜日に人と待ち合わせて観て来た。ため息が出るような絵ばかりでそれに密かに一句つけるだけの才もなくこのような雰囲気のなかで、眠る事ができたらさぞや至福であろうとせめてもの深呼吸をした。
 その方はボストン美術館も名都美術館も見てきたといわれる。緻密な感性に響くものが多々あるのであろう。羨ましいかぎりである。ひとまず腰痛は治った。
 
俳句     独居のテーブル広しヒヤシンス                                        


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腰   痛

2015-04-09 14:12:38 | Weblog

  腰痛になってしまった。
 自信過剰だったと言うか私にそんな事は起こらないときめこんで、一寸使いすぎだったらしい。
 例えばチューリップが綺麗に咲いたのでプランターを裏から玄関まで引きずった。
 裏口の軒下に雨ざらしになっていた、孫の三輪車や一輪車に乗せてみても、錆び付いていて去年までは動いたのに今年は輪が回らない。
 それならと片方を持ち上げて重い重いと言いながら玄関通路の一番前まで出した。
 そんなことはしなくても、一週間もすればその横に兵隊さんのように一列に並んだ蕾みのチューリップが咲き始めるのに。
 もうひとつの原因は庭の草を一気苛成に掻いた。 電動自転車だからといい気になってお医者や買い物に出かけていたし、 カメラ持参で近場の花見にも行った。 大体パソコンをする時の姿勢が悪い。ノートパソコンなのを良いことに、やぐら炬燵の上に置き中腰のチェアで背中を丸くして向き合っていた。 医者に行くにも寝込むにも期代わりの句会の総会を終えてからと耐えていた。
 娘から電話が入ったのでその状態を伝えると「ロキソニンを飲みなさいよく効くよ」と言う。それだって買いに行かなければならず、そろりそろりと家事をこなしている身にはままならない。
 アリナミンの買い置きがあったので三粒づつ一日三回飲んでいたら、いっときは「あれ、さっきの痛みはなんだったの」となるが時がたつと又駄目、 六十代で腰椎をつぶしているから其処か、いやもっと上の背骨が磨耗したのかも知れない。
 明日はタクシーででも医者に行こうとしまってあったコルセットを当ててみると何と何と大なのに前が合わない。特大でなければ・・・
 そうこうしていると、友達が選挙を頼みに来たので現状を言うと図書館の返本、郵便局の入金、交流館の所用と乗せて行ってくれた。
 そこまでしてもらうなら薬局でロキソニンを買うまで付き合ってもらえばいいのに変なところで遠慮をしてしまう。
 もう一人赤ちゃんを抱っこした若い人が横に乗っていて、目を覚ましたその児が泣きはしないかと言う私なりの心遣いもあったのである。
  

     俳句  一族の茣蓙の馳走に花吹雪
          土筆摘み膝弱りしをしみじみと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親 戚 の 法 要

2015-04-03 11:49:01 | Weblog

 親戚の「年忌法要」に行った。
伯父五十回忌伯母(父の姉)二十七回忌で、それを執り行うのは私より二歳上の八十四歳の従兄弟である。
 先年繊維の会社を廃業して千種区の本宅を売って娘宅の近くに家を建て案内が来ていたのに、未だ伺ってなかった。
 今回案内やら道順やら三回もハガキが来ていたのに、安易に行けるとその時任せにしていた。
 地下鉄鶴舞線で庄内通りで降りて一番出口で待てば迎えに行くけれど、伏見で電話をくれとのことであった。
 携帯電話をかけないでと何度も社内アナウンスがあるので、それを仕切らず一番出口に上がってから電話をすると、先方も「其処を動かないで」と言えば良いのに歩いてでも来れる近くだなどと言うものだから、行き違いになったりして、難儀をした。
 元の邸宅を小さくしたような結構な屋敷であった。
 集まったのは、二十八人で殆どが本門仏立宗の信者で統一された親族であった。
 五十年前伯父の葬式の時は町内中が題目の音で響いていたのを思い出した。
 ご僧侶につづいて、お経やらお題目や回向で法要が済むと黒川の木曽路でお時の振る舞いがあった。
 私の実家からは来ていないのに、伯母の仲人で名古屋に嫁いだ妹と二人は、施主の息子さんから割かし早めに「思い出の一言」を振られた。
 私は戦争中に伯父の実家に疎開されていたときの事と再び名古屋で成功されて亡くなられた時父が葬儀委員長をしてその四十九日に脳血栓で倒れて誘われるかのように旅立ってしまったことを話した。
 五十回忌ともなると、その上の事を分かる人は何人いるだろうか。
 伯母はその後二十年も生きられ卒寿の祝いを笹戸温泉でした時の写真を見ると未だ皆若かった。
 その翌日はゴルフ組と山内一生の小原和紙の工房を訪ねる観光組に分かれたのであった。
 施主は六人兄弟であったが、もう今は上の三人は故人である。
ご仏前返しの袋の中に「年忌法要に供えて」「思い出、追悼録」という冊子が写真入りで作って入れてあった。
 孫の婚約者の紹介もありこうやって代は引き継がれて行く。

    俳句   甲羅干す亀の見守る花筏 

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする