父は鮎が好物であった。
私が子供の頃、父から鮎を焼くから蓼を採ってくるようにと言われ、裏の越美南線のほとりで摘んできて、擂り鉢であたり、蓼酢を作っていた。
幸便があると伯母の家から、鮎が届いたのである。
六男一女をもうけた伯母の家は、もとは造り酒屋だった。大きな屋敷で戦後10年程は名古屋に店舗を持って商売に携わる男性達の格好の別荘であった。
鮎の解禁になるころ、漁業組合に納金をして家の前の津保川で釣りをしていた。
夏の川原のバーベキューは名古屋の得意先をもてなすのに、またとない雅趣であり 秋深くなると投網をして沢山の焼き鮎を縄暖簾にして正月用の保存食にしていたりした。
食べ物の嗜好でその家のルーツを辿ると面白いだろうが、私の嫁いだ家は桑名の出で、元家老だとか三代夫だとか言って川魚は敬遠し、小姑が鰻の皮をはいで食したのには吃驚した。
夫はいなの臍や、さざえのつぼ焼きが好きであった。私が鰻だの鮎だのと言うようになったのは50代になってからである。
実家へ行くと毎年長良河畔の湯の洞温泉で鮎料理のフルコースをたのみ、鮎雑炊で締めていた。
夫がそこまで足を伸ばすのを億劫がるようになると、今度は娘の運転で孫達を引き連れて、香嵐渓の一の谷を賑々しく訪れた。
こちらの料理の味は生け簀のものか冷凍ものか、今いちなのだが、遊びを兼ねているので良しとしていた。
今から思えば、それもこれも夫が居たから出来たことである。
今の私は一人住まいの身分相応に、アピタの魚錠で焼いたものを買ってきている。
背とお腹に箸を当てて押さえ、骨からの身離れをよくして、頭を持ちそっと骨を引き抜いて、綺麗に残った身を内臓と共にいただいている。
この辺りはまだ野草が結構あるけれど私が、蓼とあかまんまの区別がつかなくなっているので、蓼酢はなくて三杯酢か醤油である。そんな時は130mlのビールか大関ワンカップの半分をお供にする。 秋の夜の一人はわびしい限りである。
俳句 ○ 料亭の深き処に鵜小屋かな
○ 秋晴れの円空が寺河畔なり