おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

             鮎

2008-09-25 09:29:31 | Weblog

 父は鮎が好物であった。

 私が子供の頃、父から鮎を焼くから蓼を採ってくるようにと言われ、裏の越美南線のほとりで摘んできて、擂り鉢であたり、蓼酢を作っていた。

 幸便があると伯母の家から、鮎が届いたのである。

六男一女をもうけた伯母の家は、もとは造り酒屋だった。大きな屋敷で戦後10年程は名古屋に店舗を持って商売に携わる男性達の格好の別荘であった。

 鮎の解禁になるころ、漁業組合に納金をして家の前の津保川で釣りをしていた。

 夏の川原のバーベキューは名古屋の得意先をもてなすのに、またとない雅趣であり 秋深くなると投網をして沢山の焼き鮎を縄暖簾にして正月用の保存食にしていたりした。

 食べ物の嗜好でその家のルーツを辿ると面白いだろうが、私の嫁いだ家は桑名の出で、元家老だとか三代夫だとか言って川魚は敬遠し、小姑が鰻の皮をはいで食したのには吃驚した。

 夫はいなの臍や、さざえのつぼ焼きが好きであった。私が鰻だの鮎だのと言うようになったのは50代になってからである。

 実家へ行くと毎年長良河畔の湯の洞温泉で鮎料理のフルコースをたのみ、鮎雑炊で締めていた。

 夫がそこまで足を伸ばすのを億劫がるようになると、今度は娘の運転で孫達を引き連れて、香嵐渓の一の谷を賑々しく訪れた。

 こちらの料理の味は生け簀のものか冷凍ものか、今いちなのだが、遊びを兼ねているので良しとしていた。

 今から思えば、それもこれも夫が居たから出来たことである。

 今の私は一人住まいの身分相応に、アピタの魚錠で焼いたものを買ってきている。
 背とお腹に箸を当てて押さえ、骨からの身離れをよくして、頭を持ちそっと骨を引き抜いて、綺麗に残った身を内臓と共にいただいている。

 この辺りはまだ野草が結構あるけれど私が、蓼とあかまんまの区別がつかなくなっているので、蓼酢はなくて三杯酢か醤油である。そんな時は130mlのビールか大関ワンカップの半分をお供にする。 秋の夜の一人はわびしい限りである。

 俳句 ○ 料亭の深き処に鵜小屋かな

    ○ 秋晴れの円空が寺河畔なり  

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        大相撲秋場所

2008-09-16 05:51:37 | Weblog

 暑い暑い、豪雨だ災害だと言っているうちに早くも大相撲秋場所が始まった。

 相撲界もここのところ、しごきにあって若い力士が死に至るとか大麻を所持していた若の鵬が解雇されるとか、同じロシア人の露鵬、白露山の二人が大麻の精密検査で陽性反応が出たとかいや、やってないとかと騒然としていた。

 年寄り会の臨時総会で身内力士の潔白を主張した元貴闘力の大嶽親方が、やじの怒号にさらされるとかも、結局は寡黙すぎる北の湖理事長を引き下ろす前哨戦みたいなもので元三重の海の武蔵川事業部長が新理事長になった。

 その交代劇が終わり所信声明をテレビで放映したが、自分の言葉で力強い表明であったと盛んに褒めていた。そんなもの自分の言葉でなくてどうするの。

 「頻繁に異常な問題が起きていることを認識して、皆様に喜んでいただけるような、運営方針を具体的にそこにメスを入れながら部屋も一門も一つになって力士を育てる毅然として物事をはっきり言っていける間柄にして行きたい」

「 親方が力士を育てることは、最初が、かんじんで目に見えない部分を変えていくのは大変なことであるが、頑張って心が通い合える親子のような純粋な間柄をきずいてほしい」と言う主旨であった。

 遠く日本書紀に記載されているほどの日本の国技であるのだからいくら国際化したスポーツになったとはいえ、もっと国家の威信にかけて力士を養成して欲しい。

 子供の頃の双葉山旋風はどこえ行ってしまったの、テレビが普及し始めて戦後28年に初めて見た若の花の相撲は庶民の楽しみであった。

 昨日も今日もモンゴル出身の朝青龍と白鳳が連勝している。主催国の日本の力士よどうしたことか、歯がゆい極みである。

 俳句 ○ 大きくはなれぬ舗道のねこじゃらし

    ○ 雨あがり今朝たちまちの鰯雲

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        因       縁

2008-09-05 15:52:35 | Weblog

 バスを一諸に降りた母と子をあれっと思って追い越した。次は母子が私を追い越した。繰り返す事三度まぎれもなく同郷のひでちゃんで同じ町内に住んでいるのであった。

 話を聞くと腕の良い旦那が引き抜かれて、港区からこちらの金属関係の会社に越してきたけれど、話がちがっていて旦那は鼻血を出すほど悩んでいるということで、彼女は家庭内職の機械の音をことんことんとさせていた。

 振り返れば小学校6年間一緒だった折は、両親が無いと言うだけの理由で友達に随分いじめられていた。家をやっている長兄が長靴がないから学校は休め、傘が要るから行かなくて良いと絶対命令を下し、炊事洗濯をさせられていた。先生が訪問すると1,2週間は出てくるがいつも一枚看板のセーラー服であった。

 次は私が就職した会社の現場に彼女がいた。元来器用だったのであろうが、生い立ちも影響したのか頑張り屋で、400人いる女工の間でトップをきる成績であった。22歳で結婚退社をして名古屋へ嫁いで行った筈である。

 人生で意図しないのに3度も巡り合う生活をするなんて、実家の寺も同じ檀家であるし、浅からぬ因縁と思った私は人に頼んで精密機械の会社へ旦那の就職を世話し、彼女にも去る会社で女性を募集してるよと情報を持ち込むと7歳の娘の手を引いてすぐに走る対応の良さで就職をした。

 子供は3人あって上の子が未だ高校へ行く前だったが、それから二人とも定年過ぎまで(特に彼女は40年近く)その会社で働き旦那が亡くなってから10年程になる。遊ぶことをしない彼女が、唯一私の定年後バスの日帰り温泉旅行に20回も一緒に行ったのがあの世への土産であろう。

 仕事をやめた途端に心臓を悪くして入退院を繰り返し、八月が尽きる日に旦那の許へと旅立ってしまった。

 棺の彼女に別れを言う時百合の花を顎に供えながらちょっと頬にふれると、冷たくてむくんだ顔は化粧をしてもらって穏やかな表情であった。人知れず目をしばたたいた私は、まだまだ行かぬつもりであるがちなみにお墓は一緒のところに買っている。

  俳句 ○ 生きたしと願ふ友逝き猛暑去る

     ○ 介護車の走り行きけり豪雷雨

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