おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

後 日 譚

2010-01-30 09:57:23 | Weblog

 教室が終わると、途端にTさんがアッシーくんを買って出てくれた。図書館に寄りたい用事があったが、外は寒いので厚意に甘えることにした。
 開口一番「あなたのブログに御嵩の炭坑のことが書いてあったけれど、僕はあの町の東濃高校の出身でしてねー、慣れ親しんだ体育館がある日突然崩落して、沈んだんですよ」とおっしゃる。  それが伝えたかったのらしい。
 私より二、三歳は若いから在学中ってことは無いのだろうが、何年くらいの事か聴くことを忘れた。
 「実は私、この文章に限ってアクセス数が多いので、恐くなって早く早くと他の事に移ってしまったんですよ」と言って居る内に我が家についた。
 Aさんからも、パソコンに「私の町にもあったんですよ」とのメールが入っていた。
 万博の頃夫の墓から東名高速道路越しに南を見ると、万博会場用の広い広い駐車場があって、こんなに離れた所にあってもそこまでどうやっていくのと真面目に心配したものである。
 次の用途の為だったのか、五年の間に立派な街になった。多くはチエン店で、スーパー、薬品、レストラン、和食処、パン屋などが、戸建ての若者の住居、などとひしめく様相をなしてきた。 長久手南部のこうした発展の次に最近では、日進北部も田園や小高い山を崩して整地整地に明け暮れている。
 炭坑のあったと思しきところも平地になった。この広陵だけは、この辺のシンボルだからと思っていたところも、ブルドーザーが入っている。
 おそらく市の都市計画の青色図面の上のことであろう。現状保持とか競争地区にしないとか、不自由を偲ばせるとかを律する意思や姿勢が、社会通念として必要だと思う。

  俳句 寒禽の弁天池に守られて 

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寒い季節に亡くなる

2010-01-25 16:40:57 | Weblog

 末っ子の、岐阜の叔母が亡くなった。これで母の六人兄妹はオールナッシング。
 葬式に行くのに、妹と栄のオアシスで九時に待ち合わせたのに、彼女は二、三分遅れたばかりに高速バスに乗れなかった。
 私は乗っている一時間の間中心配して、岐阜廻りにしたらとか先では、何処で弟にキャッチしてもらうとか、携帯メールのやりとりをしていて、会館の外まで出迎えてくれていた、喪主に挨拶も出来ぬほどで、化粧直しをする暇など無かった。
 それなのに時間に遅れて来た、妹は私の顔の色が黒いとか皺が深いとか、致命的なことを言って私が、ひそかに蜂のムサシと名付けているそのままの性分である。
 亡くなった叔母は母と二歳違いで、戦争未亡人であった。
三人の子供を育てていて、闊達な気性だったので、親戚も良く寄り付いた。
 戦後焼け跡に建てた小さな家に従姉妹達が寄り集まって、おにぎりや西瓜を持って長良川の花火に大部隊で繰り出したりした。
 私の嫁ぎ先と叔母が勤めに通ってくる名駅の地下街とは近かったので、行き来もして舅がお母さんより叔母さんに似ていると私のことを言ったりした。
 跡取り息子はケーキ屋から始めて次にスーパーをやって、一代でそこそこの財をなした。
 
お葬式のセレモニーでは、叔母の日舞の写真や来しかたの家族の写真を大きな画面で公開した後、最後の挨拶で遠路大勢の方にお見送りいただいてと涙顔で言ったかとおもうと、ぱーっと顔を輝かせた。
 「良い報告があります。今朝孫があの雲の上に大きいばあちゃんと餡ぢいちゃん(戦前は菓子屋)が並んで手を振って居ると言い下の子も、見える見えると言いましたので、私も納得しました」と結んで会場の皆をほっとさせた。 
 日頃こんな事でもなければ逢う事のない従姉妹達に別れをつげて、人生繰り返しリズムでこのつぎは私達の番ね、と
言いながら帰りは恙無く名古屋に妹と二人で帰りついた。
 くしくも母達姉妹三人は九十から九十三歳の終焉であった。合掌

  俳句 客人をもてなす色や福寿草 

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   絆

2010-01-16 10:27:31 | Weblog

 正月も鏡開きも終わり、成人式もあっと言う間に過ぎると、
私に巡ってくるものは、夫の年命日である。 大寒の真っ只中に死なせてしまったと心の何処かが疼くのである。
縁とは不思議なもので、数々あった縁談を真正面から考えなかった私が、仲人ならぬ夫の兄嫁から「いつまでも、返事がこないけれど駄目なら駄目でそう言ってもらわないと先に進めないから」と直接電話がかかり、駆け引きされたようなものであった。
 三羽烏といわれたほどの仲間の二人はお金持ちでないと嫌だという条件があったが、私にそれは無かった。ただ都会へ出たい商家へいきたいなどと、育った環境や土地柄から抜け出したい願望があって嫁いだのであった。
 昨日エッセイグループで、今年の漢字一字、世相でも、個人の思いでも良いからという年末みたいな課題が出された。
 今更「夢」と言う年齢でもないし、思考力が能動的でない私としては、今までの来し方が仏教で言う恩寵めいた縁や因縁であったとしたら、これからはそこから脱却して、もっと広い範囲の「絆」を意識せざるを得ないと思えてきた。
 よし私は「絆」にしよう。「絆」ならば特定な人や物に限定しなければ、グループや知人にも及ぼすことができるし、ふくよかな人間性を養うことができるかもしれない、自己中心的な考え方も治せるかもと思えてきた。
 試しにパソコンで「絆とは検索」をしてみて驚いた。こんなに大勢の人が、いろいろな意見をもっているのかと。
 
中でも「結ばれる物は人だけじゃない、世界、宇宙の全ての物に心があり結ばれる」と私に似た考えの人に軍配を上げることにして私自身も意を強くした。
 早速息子と娘に今度の日曜日にお墓参りをして、帰りに昼食をしましょうと声掛けをしようとする私のこれは、果たして縁なのか絆なのであろうか。
 縁とは授かるもの、絆とは結ぶもの、私は絆の前にひれ伏しそれを胸に静かに笑顔で今年はすごそう。私の初心表明の一字としたい。

    俳句 新しき年に賜る銀世界

       茫洋と能登の日暮れや雪催
            

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炭 坑 が あ っ た

2010-01-07 13:14:51 | Weblog

 正月に例年のように家族が集まって、お屠蘇を祝った。ビールが沢山残ったので毎晩空けている。
 かってに、らりっていてなにげなくテレビを見ると「町が、まるごと沈む穴の正体は」と言って岐阜県の御嵩町を写し出していた。 え?亜炭の町御嵩!
 亜炭は戦中戦後の産業振興の貴重なエネルギー源として、石炭に比べると地表近くにあるので採掘しやすく、そう言う地層のところは、日本全国あちこち掘り起されていた。御嵩町も全国の38%を生産して、窯業や繊維産業に寄与していた。
 20歳頃当時勤めていた会社で、日曜日でも出勤してふらふらしていると一日に2回御嵩へ亜炭を運びに行く運転手のТさんが、名札を出勤に引っくり返しに来られたので、見に行きたいと課長に頼んでもらうと快くトラックの助手席に乗せて行ってくれた。
 最初縦型の穴を20メートル弱、通称エレベーターの箱に乗って下りると真っ暗な坑道が八方に横に広がり、頭にあかりをつけた人々が黙々と鑿をふるっていた。
 昭和30年代の中期、エネルギー革命と共に各地にあった炭坑が衰退して、盛んに歌われた炭坑節もノスタルジアになってしまった。
 テレビでは、 今になって町のあちこちに亀裂が生じ地震発生時の落盤が恐いと地下に空洞を抱えた住民が、廃坑の対策を強く要望していた。
 私の住んでいる所も、かっては長久手、日進の炭坑があって町を歩くとその採掘で命を落とした人を供養する石像が祀ってある。
 万博以来静かな山里がだんだん都市化して来た。
不動産屋の調べでは地下に坑道跡があることが判ったけれど南部特定地、区画整理組合は、その亜炭坑の図面を今更出すと住民訴訟が起きるから出さないと言う事である。
 時代が変わると暗黙の了承で日が経ってしまう。
私も九州などから、その仕事に携わる為に引っ越して来て住み着いたと言う人を何人も知っていたが、今では電動自転車を譲ってくれた、お腹と足がくっつくくらいに腰が曲がってしまったKさんだけになってしまった。
 ディサービスに行かれるから在宅の時、お茶に寄って四方山話を聞こう。

     俳句  雪催ひ風が頬さす古戦場 
    
 北風吹きて就活の子のスーツかな

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新年おめでとう御座います

2010-01-01 00:08:10 | Weblog

  2010年の幕開けです。
 テレビは今広島の原爆ドームを写しています。
多門院のノーモア広島の鐘を突き出しました。増上寺では3000ヶの風船があがりはじめました。
 居ながらにして、各地の元日の様子が見られて良い時代です。なべての人に佳い年でありますように!

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