おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

旅 の 終 章

2009-02-28 11:57:26 | Weblog

 総勢三十三人の「夢のイタリア周遊八日間」の旅は終わった。今日はローマを発って帰国の途に着く。

 日本列島最北端の青森県から長崎まで縦走したような旅だったので、おめかしをしてディナーの席につくような、夕食は無かったけれどさすがに、これだけの日を一緒に旅するとそれとはなしに仲良しになって、大体の人物像はつかむことができる。卒業旅行の女性五人組は華やかだった。

 起きたアクシデントは二つ、ミラノに着いてみると歯医者さん夫婦の荷物がヘルシンキに残ってしまって、まる一日後に届いて気の毒であった。

 もう一つはピザの斜塔を見てからのこと、新婚カップルが、近寄って来た現地女性にビデオカメラを盗られた。二人の人生最初の一ページであったろうに、可哀想でならなかった。

 私の反省点は(これは直らない)島倉千代子の歌にも「親子で歩ける嬉しさに」と言う歌まであるのに、いつもの癖で一人すたすた、ガイドさんの一言一句聞き漏らすまいと早歩きをしてしまうことである。

 妹はそんな私を警戒してちゃんと友達を誘って参加していた。娘は、前に二回も行っているのに私の為にここぞと言う時同伴してくれた事に、心から感謝する。

 一世一代の海外旅行であったと言う事の無いように健康に気をつけて(天白の人と二人が最高齢者であった)次はフランスへでも行きたいものである。

 同行の二人と別れて妹とセントレアで入浴して、さっそく日本食をと鰻屋に飛び込んだ。

  俳句 ● 冠雪を臨み数独飛機の帰路

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ポ ン ペ イ 遺 跡 

2009-02-27 20:12:50 | Weblog

 七時三十分にローマのホテルを出てバスで四時間走り、古代都市ポンペイの観光である。

 以前娘一家のイタリアのスライド写真に気持ちの悪いミイラみたいな一枚があると、思っていたそのわけが今回で判明した。

 ポンペイは古代ローマ帝国時代、近隣各国から様々な産物や、人々が集まってとても繁栄していた。紀元後七十九年ベスビオ火山の大噴火によって一夜にして姿を消した町だと言う。

 その後偶然の発見で十八世紀中頃から発掘が始り、千七百年もの長い長いタイムカプセルから現れ出てきた遺跡と言うことである。

 浴槽から見はじめ、パン屋の焼き釜や当時の居酒屋、睦言を交わした壁に男女の絵迄描かれた置屋風の部屋まであって、一瞬に、何メートルも埋もれた人の姿はその時のそのままである。

 広大な敷地を一時間半もみてまわった。次にカメオ工房でショッピングをした。

(めぐしナポリ夢の国)と歌ってきたナポリの歴史地区は車窓観光で(帰れソレーンとへ)の港も見ずじまいであった。

 ローマへと引き返し同じホテルに泊まった。

 俳句 ● 草萌ゆる灰かきわけし古代都市

 

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夢 の ロ ー マ

2009-02-27 13:29:03 | Weblog

 「ローマは一日にしてならず」「全ての道はローマへ通ず」さあ今日はローマ観光。

 高校生時代外国は、身近に感じられず、世界史はゲルマン民族の大移動なんて言葉を覚えているくらいで特に、力がはいらなかったなあ。

 ホテルを七時半に出てトスカーナのなだらかな丘陵地帯を、遠くに冠雪のアルプスを見ながらバスで二百九十五キロを走る。

 到着後昼食をしてバチカン市内観光をする。ローマの町を築いて二千年以上の歴史を持つ世界遺産の猛獣と剣闘士を戦わせた円形競技場のコロッセオの紹介は、プロテスタン系と言う強信者の、現地ガイドの女性が(日本人)熱弁をふるう。

 コロッセオの破壊は蛮族のせいだけでなく、住民が大理石や鉄を建材として運び去ったりした。十世紀になると住居として使われ不動産屋が売買したりしたと言う。

 他民族との共存、宗教文化のちがいを受容したとはいえ辛い労働は奴隷に任せ戦争は傭兵にさせ、自分達の生命と栄耀以外には信ずべき価値が見出せなくなっていた帝政が原因とのことであった。

 ローマの中心部近くにある噴水トレヴィの泉へ行った。

 ネプチューンやトリトンがモチーフになっている。肩越しにコインを投げ入れると再びローマを訪れる事が出来ると言う伝説に笑いながら後ろを向いてユーロのコインを投げた。

 スペイン広場では、私達の青春時代の映画「ローマの休日」のオードリー・へプバーンさながら石に掛けてジェラードを舐めた。

 そんなことをしてみたいのは、当時髪をヘプパーン刈りにして町を、闊歩していた私達の年齢の者くらいで、ヘプパーンも亡くなった今では前世の遺物なのか、座りたがる人も少ない。

 夕食はカンツォーネディナーで、ピアノに合わせて唄う歌手にあわせて椿姫を娘と原語で口ずさんだりした。

 俳句 ● カンツォーネローマの宵の春たくる

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ピ ザ の 斜 塔

2009-02-26 22:45:08 | Weblog

 八時にホテルを出発してバスでピサへ八十キロを行く。

 先ずドウオモ広場へつき、斜塔やらの景色を堪能して約二十分世界遺産のロマネスク様式のドウオモの中をみてまわる。

 ドウオモとは宮殿のことなので、日本に神社仏閣があるように、至るところにある。ガリレオのランプは薄暗くて写真には良い風に入らない。

 「説教壇は八枚のパネルと六本の円柱と人物の彫られた柱が支え大理石で出来ている。パネルには「洗礼者ヨハネの誕生」「受胎告知」「マリアのエリザベート訪問」「キリスト誕生」「最後の審判」などがある。

 ここを足であがって回るのが大変だったので、再度五階まであがると言うピサの斜塔は希望者だけが昇った。

 名だたるピサの斜塔を前に私と妹はそれを起こすように手を添える格好になるよう写真を撮ったりした。

 強行軍はフィレンツへ八十キロ走り丸屋根のドウオモを見たり、クルージングで街を眺めたり、レストランでの昼食が初めて中華料理で、リゾットながらお米を口にした。 昨日などはイカ墨パスタで皆さん黒い歯だった。

 歴史地区を歩き皮革製品のお店でショッピングを楽しんだ。

 今日が一番良く歩いた気がする。カレンツアーノのアートホテルについたのは、やはり八時半であった。

  俳句 ● ピノキオも土産に加へ春霞

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ヴ ェ ネ ツ ア に 遊 ぶ

2009-02-25 23:21:27 | Weblog

 三日目、八時半にホテルを出て市内観光、走っている車は軽自動車が多い。道路事情に依るらしい。

 ドウカーレ宮殿の美しい外観を眺めて現地のコンダクターがサンマルコ大聖堂を信仰と政治の頂点、ヴェネツアのシンボルであったと面白可笑しく説明してくれた。

 ビザンチンの金はオール十八金で金の重さは四トンだとか、マルコポーロが一番の金持ちで輸入してヨーロッパへ売っていた、とかこれは千二百個の宝石がついた衝立であるとか。 

 やはり男性は帽子を脱いでと言って、自分もつるつるでピカピカの頭をなでて、ユルブリンナーを知ってる?と、女子大生に聞いたら、若いから知らないわと言われていた。

 リベルタ橋を渡ると明日からがカーニバルで今日は残念。運河に行きゴンドラ遊覧を楽しんだ。

 先年名古屋港で模擬店のイタリア村が作られていて遊びにいったが、二時間待って乗ったのは五分だった事を思う。

 ここでは石の建物の間に満々と水をたたえている溜息橋の下を、充分乗ってしかも、リュックから尺八を取り出してサンタルチアを吹いてくれる夫婦者と私達四人は乗り合わせて、原語でうたって充分楽しかった。

 ガラス工房ではフリータイムにあれこれお土産を買った。

 疲れたので、ユルブリンナーお勧めのカフエえ入ると、自分の頬をつねりながらチョコレート、チョコレートと薦める小父さんウエイターの運んできたのは、私達の言うウインナーコヒーの上の部分がとてつもなくぶ厚い珈琲であった。

 昼食後カレンツアーノへ二百五十キロも移動してレストランで夕食をとってからアートホテルミロに八時半についた。

 俳句 ● 夕焼けのボローニャの山春あさし

    ● ゴンドラに尺八を聴き水温む

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ミ ラ ノ 観 光

2009-02-20 20:40:17 | Weblog

 スフォルツェスコ城を見て周る。中庭に丸石の集積があった。

 ドウオモ(ミラノ大聖堂)のステンドグラスの窓枠の素晴しさに目を見張る。ドウオモは神の家なので、男性は脱帽でキリストの受胎告知の絵などを見て周った。

 外の大理石の広場には、鳩が踏みそうになる程沢山居た。此処に至るヴイットリオエマヌエーレ二世アーケードは、初代イタリヤの国王の名前だそうで、凱旋門や大理石づくめの地面のモザイクも綺麗であった。

 スカラ座広場のダビンチ像やメゾチ家の紋章が、記憶に残るミラノであった。

 昼食後二七一キロをバスで走りベネチアのメストレホテルへ夕方までに移動した。

 道中、家の前にオレンジの赤い実の着いた木があったりした。

  俳句 すさまじや石が砲丸なりしてふ

     

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イ タ リ ア

2009-02-18 21:05:37 | Weblog

 行って来ましたイタリアへ。

ツアーの名称は「夢のイタリア八日間」であった。

 二月十日の十一時五十分に中部国際空港(セントレア)を飛立って、石鹸の泡に埋もれるエマニエル婦人ならぬ、雲又雲の雲海を下に見て十時間半をヘルシンキ迄、一時間後乗り換えてミラノ迄三時間。

 去年行って来た孫が「お婆ちゃん十四時間も乗るのよ大丈夫?」と言ってくれたように機内食も三回も頂きバスにも乗って都合十四時間、時差の七時間を戻して夜到着した。

 にがてな紀行文を、ミラノ、ベネチア、フィレンツェ、ローマ、ナポリ等と順を追って書こうと思うが、日本の木造文化とヨーロッパの石の文化の(二千年からの)違いに圧倒された事だけを書いて今日の序文は、やめにしようと思う。

 と言うのは帰る早々、此の地にいる親しい同郷の友人の訃報に接しまだふらふらの足で今朝十時に、お葬式に行って来た処だからである。

 以前沖縄から帰った時、●花ごろも友の訃報を聞きつ解く

と詠んだ時と同じことが起きてしまった。

 今回は雪衣と言うところか、ヘルシンキは帰り雪が深かった。ごめいふく。ごめいふく。寂しくなってしまった。

  俳句 ○ お国柄尾翼それぞれ冬空港
     ○ ゴンドラに唄う卒業旅行の子

 

 

 

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墓  開  き

2009-02-05 18:00:01 | Weblog

 タイトル「老いと病」で書いた妹の主人の百か日法要が覚王山の覚王山陵苑で行われたので出かけた。

 最近どこへ行くにも、不必要に早く出かける。十時半からだと言うのにもう十時前には、覚王山の地下鉄を降りてエレベーターで通りに上っていた。

 梅花堂の看板を見てそれもよかろうと、鬼饅頭、鬼饅頭とお供えを買いに入ったら、四十五分渡しですと言われて暫く待った。

陵苑についたら、まだ閉まっているので、そこいら辺りを散策した。よし川や、為三郎記念館がある山の手の良い所である。都市が大きくなって行く時は、山の手も昔山の手と言うように変貌していくものである。

 やがて十六人の親族が集まりお経が始まったが、お葬式には車椅子だった妹が、娘や嫁に手を携えてもらって、杖をつきながらすいすいと歩いている。

 先年墓開きをした私はどんな所かと興味しんしんであったが、何とまあ最新式で、会館の中のすずらんの苑(いろいろあるらしい)には、お墓が五基並んでいて隣を隔てる境の囲いもあり八代まで入れるのだそうな。何といっても天井があるのが、雨に濡れ無くて良い。

 若い二人が選んだだけあってハイカラであるが仏式である。

 何より良かったと思うのは、父親の勤めのせいで彼と彼女は、千種区で生まれ此処で育ち学校え通った家族だからである。結婚して名古屋に住んでいる。現に家のある岐阜えは寒くて遠いので四十九日には私はご無礼をした。

 やはり、位牌や、お墓は身近なのが良い。其処で仕出しのお時を頂いて散会をした。すぐの妹と池下でお茶をして、やがて来るお互いの家の七回忌のことを話し合って来た。

 俳句  車椅子押す川沿いに寒の鯉

      目映きはふるさとの山深雪晴れ

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