おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

五 月 の 鬱

2015-05-24 14:47:10 | Weblog

 ここのところ毎日が忙しかった。
人との出会いがあれば、出会いの数だけ話題が発生する。
 五月二十日去年亡くなった夫の姉夫婦の納骨をするというので十時に迎えに来た甥の車で桑名の朝日町のお寺まで、姉の息子夫婦二組とそれぞれの見届け役ということで姉のほうが私その夫のほうが妹のIさんということで、六人が大きな車一台ででかけた。見初められ結婚で滑り出しが良かった割には訳あり夫婦で別居中に片方がなくなってしまっていたのを、両方がなくなったところで、一緒に納骨となったのである。持つべきものは子供である。
 全員がこれで安心となり、帰りには喪主の修業時代の同僚の「四季」という多度山の山並みの見えるレストランでおいしいコース料理をいただいて四時ころ家に帰った。
 翌日は月一回のエッセー教室。例年のように「石火光中」と銘打つ冊子を編集するところまで来ているので、休む訳には行かない。まだ入部されて一年未満の男性で、最初から物語性のあるものに挑戦ししかも文章が上手な一級建築技師のSさんは、やはり才能があるというのか先生のクレームもつかない。
 二十二日は、五十歳代かろの「もめん」という機関紙の文友が例年のように東山植物園の五月を歩いて周り、タワーで昼食である。カメラを向けても今年もかと同じところを撮ってしまう。話がご馳走なのであるが、主宰がご主人の事を過去形で話されるのでおかしいと思ったら一週間前になくなられたとの事、今までこのブログでそれとなく何度も触れた事があるが、三人のお子さんがある先妻をのかせて妻の座に着いた、純情一途な人で子規の孫の子供とか従姉とかである。
 二十三日は先日亡くなった君子さんの忌明けの三十五日なので甥の運転で本家の刈谷まで行った。君子さんは女の子三人産んだので、接客は至れりつくせりで残された旦那様もまずは安心であろう。
 浄土真宗のお経を唱和する仏間の鴨居には、私にとっても懐かしい先祖の写真が並べてかけてあったので、カメラに納めてきた。参詣の十六人でお品書きの充分な「日月」とかいう料理屋でおときをいただいて四時過ぎに帰宅した。 ひとつずつかたずいていく。

       俳句    田になりてひがな蛙の鳴くと言う

              三重と岐阜麦秋続く国境

 

 

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勇 気 を も ら っ た

2015-05-16 06:39:22 | Weblog

 五月十日に直系の孫に二人目の女児が生まれた。
喜んだ私は十三日、昼過ぎ雨になるとの天気予報を尻目に入院先の愛知医大病院へ出かけて行った。
 道中の 緑が若若しい。病室には若い母親が一人だけ居てみどり児は今耳の検診に連れて行かれていると言う。新築なったきれいな病棟で、ねぎらったり年子の上の子の話などしていると、看護婦さんに抱かれたちびちゃんが帰ってきた。
 何とも言えない色白で清らかな二千六百グラムの命との厳かな対面であった。この児の父を最初抱いた時の「これぞ正しくお宝」感は今も腕が覚えている。
 お祝いを渡して帰りのバスに乗った頃から雲行きがあやしくなり下りる時にはどしゃぶりで側溝ならぬ道の両側が川のように流れていた。傘を挿していても濡れた衣服を洗濯すると、台風ぎみの雨はもうやんでいた。
 このるんるん気分で、なげやりにしていた角川の「俳句五月」号を 網羅して読み始めた。
 年代別最後九十代の名句のところで、普通九十歳を超えると俳句自体が趣味的となり小さくなってしまう。しかしここにあげる句はむしろ八十歳代の筆者の少し丸くなった背を直されるような句である。と私と歳の差が余りない昭和六年うまれの「大牧広」が評をしている。
 しずかな境地、前向きな姿勢、根源をさぐる詩精神の深さ,艶治な世界、自分への深い思い。確とした写生精神、自己凝視の姿勢、誠実な発見、きっぱり言い切る心の強さ、地平を信じている姿勢、好ましい老いの自己愛、飄々とした俳世界、現実をみつめる確かな目、やわらかい詩情、有無を言わさぬ写生心、詩と現実を見つめる目、現在のやり場のない苦しみ、人へのいとおしみ、やさしい眼差し、ゆるぎのない肉親への思い。
 等人生の辛酸をなめつくした果ての凪いだ海のような安らぎがある。深く胸に沁みる勇気がある。等々・・・
 最近とみに萎縮した自分を感じていた私は、曾孫の二人目に対面して、さあて私は上記のどれで行こうかと考えて勇気をもらった。
 年内には、娘のほうにもう一人曾孫が生まれる。三人の曾孫の婆さんとして襟を正さなければと勇気をもらった。

      俳句  上は逝き下は生まれて山笑ふ

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念 願 か な っ て

2015-05-06 11:22:47 | Weblog

  明治初期生まれの祖母に「日光観ずして、結構と言うなかれ」といつも聞かされていたので一度行きたいと思っていた。
 今回娘が連れて行ってくれ七時四分発の新幹線で出発した。
 私は着いて行くだけなのでいろいろ、うろ覚えであるが、北陸新幹線にも乗り換えたりして宇都宮で時間待ちのお茶をした。
 日光線に乗ると車内は外国人ばかりで日本人は一割そこそこである。目的の「日光東照宮」に着くと沢山の階段を上り軒庇の龍の 彫り物の多さ見事さに目をみはり、これが一番の名物の見ざる聞かざる言はざるの三猿の彫刻にも見とれ、手をたたくと声を出す天井の「鳴竜」などを見て、祖母の時代にはさぞかし不思議な見ものであったろうと思った。記念に黒い色の鈴を買った。満足満足と金色か銀色の鈴にすれば良かったかも。
 四百年目の改修をするという看板を見ながら日光名物の蕎麦と湯葉の遅い昼食をした。ホテルが回してくれた、車で中禅寺湖畔のホテル「四季彩館」へ着いて酸化するからと、身につけている貴金属類をはずして硫黄源泉賭け流しの白い湯につかった。やがて、娘と差し向かいでビールのジョッキを傾けながら周りに合わせて二時間もかかって夕食をした。
 明けてホテルのバスは六人しか乗っていないのに竜頭ノ滝、戦場ヶ原、湯滝、魚釣り場、などを止まっては降ろして観光させてくれたのでその親切さに運転手に少々のチップを秘かに手渡した。
 バスと別れて華厳の滝をエレベーターで下まで降りて観た。瀑布の両サイドの山はつつじで彩られていた。
 又もやその晩泊まるホテルの迎えのバスが来て那須高原の「ホテルエビナール那須」へ着いた。
 フロントの一枚ガラス窓は背が高くて外の芽出しの若葉で輝いていた。夕食は
 九十種類ものバイキングメニューで、客層の年齢巾も広く子供連れも多かった。大きなステージで、東北の地震から歌い続けているという歌手のシャンソンをしっとりと聴いた。 娘は足裏マッサージをしに行ったので一足早く眠りについた。
 三日目は那須塩原で新居を構えた孫夫婦が、那須岳に連れて行ってケーブルに乗せてくれた。千六百メートルの頂上の散策は私は控えて長椅子に掛けていた。 那須高原は本当に広い。三日続きの快晴に若葉は萌えて柔らかく遠くは霞んで茫漠としている。
 みやげ物やで、御用邸ケーキを追加して買ってから、予約をしておいてくれた、レストランで昼食をして二人の家へ行った。きれいな新居でくつろぎ、新幹線の時間までを年内に生まれる赤ちゃんの岩田帯の話などをして話に華を咲かせた。

 駅まで送ってもらって車中の人となったが、日光東照宮、中禅寺湖、那須高原と、私八十二歳を飾る観光の三日間の旅であった。 

俳句    三猿を眺め五月の八十路かな 
       華厳の滝流れ裾野をうるほすや
       那須岳の雪渓を行くロープウエイ

 

 

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