おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

吟 行 は デンパークと丈山苑

2009-10-31 05:40:51 | Weblog

 例年の寿句会の吟行が今年は安城のデンパークであった。
 バスで来る人を市役所で拾い、市民会館でその他のメンバーを乗せた市のバスは、豊明のインターから知多道路に入ると、直にデンパークについた。
 バスで隣合わせに座って来たKさんを入場するまでに見失ってしまい、チケットを渡す役員が困っているので、探すともう隣の道の駅で無花果を三袋も買っていた。無花果は安城の特産品である。
 先ず園内バスに乗ろうと直行すると、ここしばらくは動いていないとのことで歩いて廻ることにした。
 大
きいサンルウムの中を歩くと立派な懸崖の黄色や、うすべに色の欄やらが目を楽しませてくれる。
 無限図句会の兼題は「室咲き」だったなあと思っていると大きな音響で、交響曲が流れ出した。チャイコフスキーの一番だそうでベンチに掛けて聞いている人もいる。
 其処を出て雲一つないぬけるような秋空の下を花の小道や小川に沿ってしばらく歩いてKさん、Tさんとの三人で和食処で注文して、しばらく待つと三十何台もの車椅子の老人のグループが入って来た。
 キャンセルをして枯れ蓮の池の橋を渡って男性三人と合流して鉄砲山の麓で花時計やら池のしし脅しを観て食堂街のセルフサービスの店で、茸スパゲテイを食べた。 私はこのデンパークへ来たのは、これで三回目である。
 その次に行った丈山苑は、はじめてで大層興味があった。
ふた間つづきの座敷に正座して枯山水の庭を眺めてほっとする。砂利の白さも五輪塔も蹲もつわの花も眺められる。
 床の間つきの部屋には丈山の掛け軸がかかり欄間には三十六詩仙の徳川園のレプリカだと言う肖像画がめぐらされている。
 庭を回遊すると侘びすけが白い花を咲かせ池の錦鯉は手を叩くとそれぞれ美しい柄で集まってくる。
 東屋に腰を下ろす時間はなかったが、芭蕉の句も書かれた碑もあった。ただし杖を持った像は丈山であろう。
 狭からず広からず散策には丁度良い此の施設は、きっと市の管理なのであろうが、聞いてみることを忘れた。
 これも借景と言うべきなのかバス迄の帰りは、紅葉寸前の山辺の小川沿いの美しい小道であった。

  俳句  杖長く座せる石像秋日濃し
      丈山の苑回遊し添水聴く

 

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ゲートボール その(2)

2009-10-20 08:37:50 | Weblog

 瀬戸市にある瀬戸信用金庫のグランドへ東名古屋地域のゲートボールの対抗試合に行った。
 主催の挨拶があり選手の力強い宣誓でそれは始まった。
朝7時に家を出てきたのに、入部したての私は補欠でベンチ入りの情けなさであった。
 三脚を立てて、写真を撮っている背広の方に「リサーチ、リサーチ、参加者は何人ですか」と聞くと176名とのことであった。 ゆっくり観戦することにした。
 シニアとは言えベテランばかりで、身体的には、背が曲がったり、何かの後遺症なのか、脚をひきずったりの人も入れて、スティックで球を叩いている異様な熱気である。
 皆それぞれのユニホームを着て体力的にも無理からぬスポーツと納得したが 風景的には、老人大国の一端か年寄りばかりのおぞましい光景であった。
 私達のチームは東郷町の1チームには勝ち、春日井のチームには負けて1対1であった。
 瀬戸信用金庫からの販売促進程度の参加賞も出て、余裕派の預金が獲得出来るのではと思ったりもした。

 中、二日置いて今度は日進市の連盟の大会であった。設立当初の村の名称らしいチーム名がついていたりする。
 町や市になる前の名前は、歴史を紐解くようで懐かしい。
今日の私は北信地区のスペア要員として参戦することが出来て、赤池と折戸に1対1の結果ではあったが球もゲートをくぐり、相手の球をアウトボールにも出来て結構楽しかった。
 未だ片足を入れただけのつもりの私であるが、3キロを通う手立てとして、とうとう電動自転車を買い込んだ。
 岩崎地区もコートを開放するばかりで、優勝は他の地区に譲っているようである。
 今月終りには、未だ愛知池での大会があるとのことである。
 道路やら街には今の時節、市の花である木犀が花をこぼし良い香りが漂っている。今に山茶花も咲き始めるであろう。

 俳句 余裕派の傘もささずに雨の萩 
    ご在所の山頂に居て愁思かな

 

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続 1 Q 8 4 の批評

2009-10-11 23:17:49 | Weblog

 若い頃学校の夏休みの宿題で、本の読後感想文を書かされたものである。
 そしてそれは余り嫌いな分野では無かった筈である。   
それが今回読んだ1Q84と来た日には、後味の悪さで一種の強迫観念さへ抱く重々しさがある。
 登場人物の天吾、青豆、ふかえり等三人は、生い立ちで家庭的な温かさを知らず経済的に質素で、精神的にも孤独な共通点がある。
 従って遊びのない、真面目なだけの精神世界に身を置いている。セックスも生理現象としか書かれていない。
 小説である以上花鳥風月の形容が出てきても良いのに、青豆の部屋にゴムの木が一本と月が二つに見えると言う事だけである。
 集団生活から逃げて天吾の所に身を寄せたふかいえりの口からは、シホンシュギとかブッシツシュギと言う言葉が出てきて、ある種のカルト宗教ものである。
 その
コミニュテイの中では規律正しい日課、定められた運動、質素な食事、テレビなどない生活であった。
 教祖的な絶対者、それを軸とする思想には3人とも批判的である。そのくせそこから、100%脱却できない思考回路に支配されていて青豆も5年生の時に転校して、今や合法的な殺し屋をしている一人者であるが、異次元の月が二つあることを信じているような女性である。
 天吾に会いたい。小学5年生以来会ってないのにそう思っている。
 天吾も塾の講師をしていて、ふかいえりと一心同体になっても青豆に対して抱いている少年の日の思いは同じである。
 彼にも月が二つに見えたところで、彼女の主観が届いた。彼女の孤独な死によって、その思いが果たされた。そのくせ、二人は逢っていない。
 この1Q84なる小説は、生きることが、複雑になって行く社会機構の中で、思考ばかりが優先する現代のインテリゲンチャーを風刺した村上文学と言うところではないだろうか。
 とにかくこんなむつかしい本の感想文は書けない。いいかげんに卒業して私の日常に戻ることにする。

  俳句 斑鳩路萩にふれつつたどり行く
     風立ちて池の面覆う萩の花

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1 Q 8 4を読んで

2009-10-02 17:41:37 | Weblog

 九月三十日中日新聞、中部の文芸欄で、発刊した折に送って置いた、この「おにゆりの苑」を小説評論家の清水信氏が、「余裕派の魅力充分」と好評をして下さった。
 なので今更おずおずと蛇に怖じた感であるが、ブログを開設している手前十日も空けてはと、心機一転、口さがなくてつたない文章を、そこそこ書いて行こうと思う。
 五月頃あれだけ世間が騒いだので、村上春樹の「1Q84」を図書館へ貸し出し依頼をして置いたら、今頃になって順番がきた。
 読み出すとやめられない私は一日がかりで、一気に読んでしまったが、その読後感はぽかーんとした感じである。
 まだ(2)を読んでないので結論的なことは言えないが、これが村上作品か。
 フィクションの世界でも命がかかわれば、読み手は真剣になり、そこに身を置けば現実世界になって行く。
 それなのに、人をあやめたり、犯したりのさまざまな罪がファンタジーに依って、あやふやにされていき、あたり前の罪悪感の意義は出て来ない。
 私は又1994年頃、あばかれたオウム真理教や、やまぎしなどが、ふかいえりと言う女の子の出てきた母体なのかと思って、 真剣に熱心に読んだが、掘り下げては書かれていない。
 宗教法人のベールに隠された組織の前にはリトルピープルなる存在もわからず終いである。
 小説に過分な時代背景を期待する私の年齢が馬鹿げていて、現実には、うんと漫画チックなのが当世風というべきかも知れない。
 ただ見えないものにどれだけ真摯な気持ちで居られるかと言う古今東西かわらぬ恋愛感情はよく書けていた。
 この続きは(2)を読んでからということになる。

   俳句  木の実落つ1Q84読む窓辺
      
       能舞台舞一差しの秋思なる

コメント (1)
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