おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

   今     昔

2018-10-23 11:14:07 | Weblog

 今年の老人会の旅行は、岐阜県の岩村城であった。
白内障の手術の跡がおもわしくないので、いただいていたお城や資料館のパンフレットをつぶさに見もせずに、夫の存命中に何度も遊びに行った大正村であろう位に考えていた。
 ところが当日岩村へ到着してみると、しまったもっと研究しておくべきであった。というのは就職をしたとき五歳とし上のIさんがこの町の出身者であった。余分なことは言わない、真面目で仕事の良くできる模範的な人でよく面倒をみてもらったことを思い出した。
 私の両親ときたら長女が就職をしたというので職場の男性グループを七、八人、女性グループは関祭りの日に七人を呼んで御馳走を振る舞ったりしてくれた。
 当の本人はもう学校へは行かなくていいし入寮制なので親の目を気にせずに遊べるしと言った感覚であった。
 観光マップを見ながら急に懐かしくなって時々同期会に顔を出すМさんに電話を入れてみた。「Iさん?何いってるの、もう何年も前に亡くなってるよ」と言う返事でがっかりした。確か加子母の公務員の人に嫁がれたはずであった。
 この度も高齢者は資料館で一休みしたり入浴や卓球をしたりして、昼食までをすごし、若い人のグループは町並みを散策したのらしい。それがこの間まで熱心にみていた朝ドラの「半分青い」のロケーションの場所であったと知っていたならカステラを土産に買いに走っただけでなくつぶさに街をあるいただろうと悔しがることしきり。
 家に帰って後輩のAさんに言うと彼女も行ってきたけれど散策不足だったからもう一度行きましょうかと言ってくれたが、行きと違って青葉(紅葉は未だ)ばかりの道をあそこは夫と松茸買いに行ったところ、筍を売りつけられたところなどと思うとそこまでしなくてもと思える。六十年も前の岩村はもっと静かなところであったろう、正月前になると、帰省するのに「明知鉄道」で行くとか[名古屋廻り]でいくとか耳にしていた。確か彼女は加子母へ 嫁がれたはずであった。来年はよくよく周到にしらべて参加しよう。

       俳句    話たき知り合い少なし秋の風

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従兄弟の米寿の祝い

2018-10-04 13:51:41 | Weblog

 名鉄ニューグランドホテルで従兄弟の米寿の祝いがあった。
 早くから招待状が来ていたが、未だ先のように思っていた。前日になって短冊の一句も携えて行かねばねーと思い立ち50回も練習したがやはり字が下手である。
        俳句 「菊の香や米寿は白寿の一里塚」 
 運悪く台風の予報日であったが、10時半集合とあったので、9時前に家を出た。ホテルのフロアの椅子には見慣れた顔がくつろいでいた
 。しつらえられた、宴会場には壇上に同級生だった米寿の両脇士を配して総勢30人以上のそれぞれの円卓である 。
 挨拶があってくすだまがはじけて、宴が始まるとお祝いの言葉がそれぞれあり、仏立宗のお寺のおしょうさんから、日頃の研鑽振りの誉め言葉があり、余興では、郡上節が数々披露されたり、フルートが吹かれたり、南京珠すだれも幾つも披露してくれた。本人は黄色の帽子、上着 ズボンと定番の赤ではない。ストーリーが出来ているのに若い人がよくふるいろいろに束ねた旗を振ってはD席E席とわたりあるいている。さすが営業から、社長になっただけのことはあると感心した。
 戦争中岐阜県の下乃保へ疎開してきて六年間自転車通学だったことやお隣の高校で生徒会長やらバレー部のキャプテンだったりしたので学区制で美濃市の学校へ帰って行った私の友達も何人かが世話になっている。私と妹はこの方の母様の(父の姉)仲人で名古屋へ嫁いでいるので、何かがあると妹と一緒に出席していた。今は妹は施設に入って車椅子の人である。
 60年近く昔の伊勢湾台風があったとき次の日には様子を見に来てくれたことや、夫の棺を窯に入れるとき私と共におおきい声で 題目を揚げてくれたことなど有難く思っている。
 あらためて米寿おめでとう。 

 テレビが台風台風と言い立てるのでおいとますることにした、持たせてくれた本2冊、「八十八歳の歩み 」と郡上節を聞かせてくれたkさんの「老いて知る人生の楽しさ米寿を迎えて」をパソコンに送られて来たこの日の写真集「デジブック」をみながら楽しく読ませてもらっている。

          俳句  音のみのすごい台風うつらうつら」

               一族の安寧ねがひ秋彼岸

 

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