おにゆりの苑

俳句と俳画とエッセー

昭 和 と 戦 争

2009-07-27 17:56:31 | Weblog

 今日、中日新聞の地域広告版として入ってきた「昭和と戦争」と言うビデオ全8巻のちらしを見ている。
 [明治神宮外苑競技場]
を銃を肩に隊列を組んだ学生の行進がA5版の写真で載せてある。
 昔の会社の上司が、当時東京農大の学生であの雨の行進の中に居たと言っていた。 次からは写真が小さくなって、
 「勤労動員」動員先の三菱で放送室でマイク係りをしていたと言う夫は、爆撃される時いち早く上司達と車で半田あたりまで、逃げたと言って居たっけ。 次は
 「出征」私達の学校では、その都度神社へ肩から襷をかけた国防婦人会の方達と「天に変わりて不義を討つ」と歌って日の丸の小旗を振って送って行った。
 「千人針」写っている女性の何と初々しいこと、二十歳代なのであろう。道の辻でよく赤糸の瘤を結んであげた。
 
「満州に移住」義勇軍に行った上級生は復員してくると、皆グレて街を闊歩していた。
 「勤労奉仕」おかっぱ頭の女学生がミシンを踏んでいる。
 女学校上級生の、従姉妹は工場で、落下傘を縫っていたが私達一年生は出征兵士の家へ農繁期の手伝いに行ったり、川原へ砂運びに行く毎日であった。
 疎開して来ている子は蛭に吸い付かれる田圃えは、入れなかった。
 「国民学校」戦争で尋常小学校から呼び名が変った。
 「学童疎開」それは無かったが西校舎全部に兵隊さんが駐屯していて、洗面器に水が入ったのを持ってよく立たされている姿を目撃した。往復びんたの言葉も、この時に覚えた。
 「竹槍訓練」小学五年六年の体操の時間はこれのみであった。    「予科練」社会人になって初めて初恋らしきものを経験したが、叔父に予科練上がりではと反対されて終わった。 その外
 「特攻隊の出撃」「終戦」「外地からの引揚げ」と一面を飾っている。
 小学校三年生で戦争が始まり、私の人生のすべての起点がそこにあって、否定したいような人生だったのに、こんな写真集やDVDは要らない。二面を開くことなくその新聞を向こうへと押しやった。

  俳句 防火槽にあめんぼ湧けり戦火の日

 

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赤 紫 蘇 と 青 紫 蘇

2009-07-21 06:55:36 | Weblog

近くに住む娘に、娘の友達のKちゃん家は屋敷も広いし畑もあるから、赤紫蘇を、私が梅漬けに入れるくらいどれだけの量でもないから頂いてと言って置いた。
 「気が無い様子だったよ」と娘が言うので買って来て漬けた。三日三晩夜干し昼干しをする土用も近くなったある日、どさっと赤紫蘇を抱かえて、Kちゃんが現れた。
 「もう漬けてしまった」と言うと「誰かあげる人は無いの」
とか、「ゆかり粉になさいよ」とか言って居られたが結局、出かけようとしていた私を交流館まで乗せて行ってくれて紫蘇は、持って帰らせてしまった。
 後で娘に言うと「旅行に気を取られて居たから遅くなって、と言い訳をされたなら、何処へ行ってきたのと何故聞いてあげなかったの?家族でオーストラリアへ行かれてたのよ」とか、「せっかく車で届けてくだすったのに、どうしてもらって置いてあげなかったの」とか、親子逆転の会話になってしまった。
 次の日ゲートボールに行くとNさんという男性が、青紫蘇を沢山車に積んできて要る人は、持って帰ってとビニール袋までくださった。
 昨日の赤紫蘇のことがあったので、頂かないと悪いような気がして持って帰り教わったように大薬缶に三杯も、紫蘇茶を煮出し仕上げにレモンの輪切りをいれた。
 冷ましてペットボトルに入れると九リットルもの冷茶ができあがった。アントシアニンを含んだ健康茶なのだそうである。
 赤紫蘇はその上にポリフェノールを含んでいて煮だして砂糖とクエン酸を入れると美味しい梅ジュースが出来るのだそうである。
 
そうめんの薬味も赤紫蘇のほうが香りも良いとのことで、そうした私の田舎仕込みの生活習慣も間違いではなくて、只スーパーが年がら年中大葉と言って青紫蘇だけを売っているので商業ペースに乗せられていたのだと判った。
 はるか昔に中国から渡来した赤紫蘇と青紫蘇の決定的な違いは、赤紫蘇は塩もみすれば赤いエキスが出るという古今東西ゆるぎない個性の事実である。
 料理屋では赤紫蘇の発芽間もないものはムラ芽と言って白身の刺身のつまに、青紫蘇のそれはアオ芽と言って赤身魚の刺身のつまとして、盛り付けている。

 俳句 清洲越し祝ふ街並走り梅雨   

    梅雨明けをひたすら待てる瓶の梅

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箱 根 の 追 憶

2009-07-11 08:03:55 | Weblog

 梅雨の晴れ間に妹から「箱根に居ます」と久しぶりに携帯電話にメールが入った。
 
「早雲山は視界がきかないから上らないほうが良いよ。大涌谷は行きたいねー」と知ったかぶりの返信をすると「大涌谷も、芦ノ湖遊覧も、海外旅行の脚慣らし」と折り返し来たメールには絵文字で走っている人を二つと傘と靴の四個が並べてあり楽しそうである。
 そう言えば私が娘夫婦と大学帰省中の孫との四人で箱根小旅行をしたのは、このブログを始める前だったから、もう四年になる。
 現在形で回顧文を書くとすると、 八月十二日の朝、六時前にパパの運転で出発し東名高速をひた走って、先ず伊豆国立公園に着き国内最初と言う野外美術館の彫刻の森を観て廻った。
 弓を引くヘラクレスの大きな彫像は圧巻で、二キロ程を見て周り足湯につかったり、バイキングの昼食を楽しんだりした。
 ケーブルで駒ケ岳へ上ったが霧が濃くて富士山は見えなかった。強羅、宮の下と見覚えのある地名のところを通って四時に芦ノ湖ホテルへチェックインして、くつろいだ。
 翌日は大涌谷へ登った 。
 白い花をてっぺんに咲かせている木が連山覆うばかりなので、その木の名前を知りたくて人に聞くのだけれど、誰に聞いても判らない。
 皆さん黄色人種だけれど、右を向いても左を向いても外国人ばかりで、これだけ多くの人が日本をみて歩いているのだと初めて知った。
 やがて広がる石ころだらけの山は、あちこちで黒い噴煙をなびかせていて、そこで売っているのは、硫黄のせいか真っ黒な温泉卵であった。
 下りてからは滝廉太郎の「箱根の山は天下の険」の大きな碑があったので、どうしてそんな歌を知ってるの?との孫の表情を尻目にそれを口ずさみながら箱根の関所跡や土産物の商店街を散策した。
 五十年前の新婚旅行は伊豆、熱海、箱根などだったので、最終の地の箱根へ今回来ることが出来たのは何よりであった。明後日の夫の初盆には、それが報告できると思うと懐かしいような、それでいて思い出の多い傷心旅行であった。
 白い花は箱根観光協会へ電話で問い合わせて「りょうぶ」と言う木であることを知った。妹からはその後のメールはまだ届いていない。

  俳句 函嶺の思ひ出旅行夏過ぎる

     芍薬の崩る束髪解くごとく

 

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桜 桃 忌

2009-07-02 01:11:24 | Weblog

 生誕百年で空前の「太宰ブーム」である。
 ならばフアンである私もと、二階の本箱から新潮文庫の太宰の本を持ち出して来た。十一冊あった。
 その昔、私は「斜陽」からこの人の文学に入った。文章が口語体で書かれていて解り易く、その上我が家が農地解放に遭った斜陽の地主でもあったので、自分の身になぞらえて、のめり込んで行った。
 「人間失格」を読めば私もそうだ、そうだと同調し「走れメロス」を読めばヒーローの友情と正義に単純に感激して涙を流したものである。
 太宰文学にのめりこんだといいながら、五回も六回も自殺未遂を起している彼のようには、「死のう」などと思ったことは一度もなくて、今日ここに命を永らえている。
 統計好きな私としては、今改めてどのくらい読んだのか羅列してみたが、「きりぎりす」や「津軽通信」などは短編が多くて煩雑なので、目次で数えて行った。
 数えてみると丁度百五十編で、当時小説の神様と言われた、志賀直哉に噛みついた文章は、よく覚えているが、中に全く思い出せないものもあった。
 
人生の総仕上げにそれらのものをもう一度読んでみようと思っている。
 桜桃忌は三鷹市の菩提寺である禅林寺で修され、斜陽館のある故郷の金木町では生誕祭が行われるとのことである。
 俳人の沢木欣一が 「 夜学生教へ桜桃忌に触れず 」と詠んでいるが、 私にとっても無頼派、破滅型と称される太宰の書物は総じて恐いもの見たさといった百五十編であった。
 しかし戦後を生きて成長して行くには、必要な心の糧の数々であったことは確かだ。

  俳句  梅雨籠り積読の山崩さんと

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